[ 神原通信 ]

2024年6月21日(金

<『エルトン・ジョン』 >

大学の時に買った中古の『エルトン・ジョン』のジャケットが好きで、中の曲は聴かないけど、アルバムは時々出して眺めています。紙質が凹凸のあるケント紙のようで光沢がなく、その手触りもいいんです。

ジャケットの表はエルトンの横顔なんですが、男前じゃない彼の顔をできるだけカッコよく撮影していて、僕も昔真似てみたことがあります。

中ジャケがカッコいい。文字の選び方というか色合いというか、これも真似しましたね。

えるとん3

裏ジャケは当時の風俗を象徴しているというか、みんなヒッピー風。

エルトン3

この中で僕にとっての重要人物は誰かというと、「ポール・バックマスター」と「ガス・ダッジョン」ですね。しかし、みんなイキってますね。笑

【ポール・バックマスター】

「アレンジャーとして『エルトン・ジョン』より参加。弦楽器により音に深みを出し、初期のエルトンのイメージを形成した。近年の作品にも参加している。デヴィッド・ボウイの楽曲『スペイス・オディティ』を共に手がけたガス・ダッジョンをプロデューサーに使うよう進言した。」(Wikipedia)

彼のアレンジは、ある時は上品に、ある時はドラマチックに、それも伴奏という形ではなく、エルトンやバンド仲間とのデュエットの如く、大胆に主張するというか、時にはエルトンより前に出たりする。初期のエルトンのアルバムには欠かせないそんなアレンジャーでした。

彼が関わった曲で好きなのは「Come Down in Time」と「If There's a God in Heven

どちらも「なんでこんなに繊細で大胆なんだろう」と驚かされる。「Come Down・・」のオーボエや「If There's・・」のギターのリフをストリングスに合わせるなんて、アイデアが素晴らしい。

【ガス・ダッジョン】

「デッカ・レコードで勤務してゾンビーズらと仕事をし、トム・ジョーンズやローリング・ストーンズのオーディションの手伝いを経て、1967年に発表された『テン・イヤーズ・アフター・ファースト』の共同プロデューサーとして名を連ねている。
その後、ダッジョンはデッカ・レコードを離れ、自らの会社を興し、1970年には、エルトン・ジョンと仕事をし始めた。彼らが最初に取り組んだのは、シングル「僕の歌は君の歌」であり、シンプルなピアノ曲にオーケストラ・アレンジを加えた。
シングルは成功し、全米シングルチャートで8位まで上昇する。エルトン・ジョンにとっての最初の大ヒット曲となった。その後はエルトン・ジョンの数々のアルバムのプロデュースを務めて成功を収めた。
1995年にはダッジョンはエルトン・ジョンの多くのカタログをリマスタリングしている。」
(Wikipedia)

彼を意識し始めたのは、エルトン・ジョンのリマスタリングのCDを聴いた頃でした。その音は、現在の他のミュージシャンのどの曲の音よりもくっきりとしていて、かつ音像が分厚いのが分かりました。特に、今でも、ポール・バックマスターのストリングス・アレンジを聴いていると「これが50年前の音?」と驚く程です。

エルトン・ジョンのアルバムで、一番まとまっているのは「ピアニストを撃つな」でしょうか。
ダニエル」も、ストリングスは使われていませんが、アレンジは多分ポール・バックマスターだと思います(違うかな?)。

90年代に発表された「ビリーヴ」もいい曲ではありますが、全体に重苦しく彼の繊細な声は聴く事が出来ません。それよりもポール・バックマスターのアレンジがたまりません。

 

2024年6月19日(水

<最近観た映画 >

牛泥棒

「牛泥棒」1943年(75分)
監督:ウィリアム・A・ウェルマン

出演:ヘンリー・フォンダ、ダナ・アンドリュース、アンソニー・クイン

前にこの監督の「飢ゆるアメリカ」というのを見た事あるけど、かなり主張のある映画を撮る人という印象。そしてこの作品は、群集心理と私刑(リンチ)についての話。クリント・イーストウッドが感銘を受けたというのもうなずける結末。製作年が1943年、と戦争中なのにこの内容。娯楽映画の様でそうじゃない。変った映画です。

主演はヘンリー・フォンダだけど、主役というには決断力がなさすぎて、それもこの映画の主題の一部なのかもと思わせる。西部劇なのに、ほぼスタジオ撮影というのも異質。画質はきれい。



ローハイド

「狙われた駅馬車」1953年(89分)
監督:ヘンリー・ハサウェイ

出演:タイロン・パワー、スーザン・ヘイワード、ヒュー・マーロウ、ディーン・ジャガー、ジャック・イーラム

タイロン・パワーは僕の印象では「活劇俳優」なんだけど、この映画ではけっこうシリアスな演技をしています。駅馬車の中継場所「ローハイド駅」で起こる事件を描いているんだけど、これも変った映画で、舞台劇のような感じ。登場人物を丁寧に描いているので見応えありました。悪役のヒュー・マーロウがいい演技をしています。3O年代の西部劇のリメイクだそうで、脚本がいいので最後までどういう展開になるのかハラハラドキドキ。ポスターは内容とはちょっと違うなぁ。



白鯨

「白鯨」1956年(116分)
監督:ジョン・ヒューストン
出演:グレゴリー・ペック、リチャード・ベースハート

「予算を調達する際、一部のスタジオと「エイハブには名声のあるスター俳優を起用する」という条件で契約をしたため、エイハブ役にはグレゴリー・ペックが起用された。ペックは自身がエイハブとしてキャスティングされたことに驚き、公開後も「ジョン・ヒューストン自身がエイハブを演じるべきだった」とコメントしている。」(Wikipedia)

グレゴリー・ペックは好きだし、役になり切ろうとしている努力も見えたから悪くは言いたくないけど、ミスキャストだったかな、とは思う。
作品的には暗いけど、全体のムードは悪くないし、子供の頃に体験した「冒険小説を読んでいる」感じに近かったので、それなりに楽しめました。


ロープ

「欲望の砂漠」1949年(104分)
監督:ウィリアム・ディターレ
出演:バート・ランカスター、ポール・ヘンリード、クロード・レインズ、ピーター・ローレ

影のある演出はフィルムノワール風ですが、最後はハッピーエンドです。「カサブランカ」の俳優とかなり被ってるから、「二匹目のドジョウ」を狙ったのかも。ただ、女優さんの英語がフランス語訛りで違和感あり。
でも、バート・ランカスターが好きなので、良しとします。

 


バードマン

「終身犯」1962年(分)
監督:ジョン・フランケンハイマー
出演:バート・ランカスター、カール・マルデン、ヒュー・マーロウ

この映画男っぽくて大好きです。監督もいいしバート・ランカスターもいいし、着想も面白い。「独房で鳥を飼う映画」なんて聞いた事がない。
非常に一方的で偏った主人公の性格も、観ているうちに納得するようになります。昔はこういう無骨な映画多かったんだけどなあ。
こういう映画があったから、映画が好きになったんですよね。

人間なんて偏ってるんですよ。いいか悪いかなんて味方を変えればいつでも逆転するんですよね。僕はそういう映画ばかりを探しているのかもしれないなぁ。


ワイルド

「ワイルド・バンチ」1969年(分)
監督:サム・ペキンパー
出演:ウィリアム・ホールデン、ウォーレン・オーツ、アーネスト・ボーグナイン、ベン・ジョンソン、ロバート・ライアン

この映画男っぽすぎて、今見るとかなり下品。しかし、僕はこの映画が好き過ぎて、テレビ放映された時、最後のスローモーション撮影された銃撃戦を8ミリカメラで撮って、それを編集してスローモーションで映写して友達に見せたほどです。
今回観て気付いたんだけど、スローモーションの扱いは後の「ゲッタウェイ」や「ガルシアの首」の方が色気がありますね。
この映画をブルーレイで観たかったんだけど、英語盤しかなくて買うのを断念して、DVDを買いました。やっぱり好きです、この映画。


ボーン

「ボーン・アイデンティティ」2002年(分)
監督:ダグ・リーマン
出演:マット・デイモン、フランカ・ポテンテ、ブライアン・コックス

この映画、リアルタイムで観てなくて、アクションが007「カジノ・ロワイヤル」の真似みたいだなあ、と思ってたら、007がこれを真似したんだと後で気づきました。やっぱりすごい。

ダグ・リーマン監督の最新作「ロードハウス/孤独の街」を観ましたが、20年も経ってるのにアクションシーンは派手にやってますね。話的にはどこにでもある映画だし、俳優に金をかけてないのが残念です。


ボーン

「ボーン・スプレマシー」2004年(分)
監督:ポール・グリーングラス
出演:マット・デイモン、ジョアン・アレン、ガブリエル・マン

ダグ・リーマンは製作に回り、監督はポール・グリーングラスに。2作目の方が面白いと言うのも珍しい。手持ちのカメラの慌ただしさには賛否あり。1回目観た時は気になったけど、2回目にはそれほど気にならなくなりましたね。カーチェイスのシーンは、どうなってるのかよく分からないけど「すごい」です。

この映画に出て来る殺し屋はどの人もかっこいい。1作目のクライヴ・オーウェン、2作目のカール・アーバンが印象的。


ボーン

「ボーン・アルティメイタム」2007年(分)
監督:ポール・グリーングラス
出演:マット・デイモン、ジュリア・スタイルズ、アルバート・フィニー、クリス・クーパー

3作目も面白い。3作ともブルーレイで欲しいですね。マット・デイモンの代表作になりました。

2015年の「オデッセイ」のマットもいいけど、ちょっと歳を取りすぎた感じ。だから最新作の「ジェイソン・ボーン」は観ない。

あと、クリストファー・ノーラン監督「メメント」、オリバー・ストーン監督「プラトーン」、ブライアン・デ・パルマ監督「愛のメモリー」、アントワン・フークワ監督「イコライザーfinal」、「ミーガン」を観たけど、どれもいまいちでした。

 

 

2024年6月16日(日

<ビージーズ >

ビージーズ

マサチューセッツ - "Massachusetts"(1967年)全米11位、全英1位

僕がビージーズと出会ったのは13歳(中学生)の頃。日本ではグループ・サウンズが人気だったこともあり、曲調が似ていたことも影響してか「マサチューセッツ」が好きでラジオでかかるのを楽しみにしていました。

ビージーズは元々イラストにあるように5人組だったんですが、1970年に仲間割れがあったようで、バリー・ギブ、ロビン・ギブ、モーリス・ギブの3兄弟になります。
僕は、グループサウンズの下火とともに「もっと本格的なロックを聴きたい」気持ちが強くなり、友達の家でローリング・ストーンズやザ・バンドのレコードを聴かせてもらったりしていると、ビージーズのようなソフトロックからは離れて行ったんですよね。

その後、ビージーズはディスコサウンド期(1975年-1979年)を経てだんだんとアダルトな感じが強くなり僕から遠い存在になっていました。

彼らと再度出会ったのは、2010年に出た「キャロル・キング トリビュートアルバム〜つづれおり」の中の1曲『ウィル・ユー・ラブ・ミー・トゥモロー』でした。

これもアダルト・コンテンポラリーっぽい曲調ですが、キャロル・キングの名曲だし、感傷的な内容も手伝って毎日のように聴いていました。
そして、この曲をきっかけに彼らの名曲探しが始まりました。そうすると、結構あるんですよね、いい曲が。

「アローン」 「Island in the stream」 「wish you are here」

最近ずっと聴いているのが、「Island in the stream」のスタジオバージョン

打ち込みのドラムが気持ちいい。

 

 

2024年6月15日(土

<『男はつらいよ』1作目 >

男はつらいよ

ブルーレイ画質★★★★★

特別編を加えると49作にもなる「男はつらいよ」シリーズは1969年作のこの映画から始まりました。
1969年はというと、学生が学校や政府に対して意義を唱える、いわゆる「学生運動」華やかなりし頃で、僕は地方の高校2年生。当時はテレビや雑誌で報道される世の中の矛盾を横目で見ながらも、ビートルズに触発された者なら誰でも心の中に「アナーキー」な思考が芽生えていた頃です。

奇しくも映画「イージーライダー」がアメリカで公開されたのが1969年、日本では1970年公開。
世間に背を向ける姿勢が評価されていた時代です。そんな時代に「松竹人情喜劇」なんていう映画がとんがった高校生の僕に響くわけがなく、第1作目から第7作目までは全く眼中になかったのでした。
そんな僕が第8作目の「男はつらいよ:寅次郎恋歌」を観てみようと思ったのは、映画として徐々に評価が上がっていた事と、池内淳子がマドンナ役で出ていることでした。

この映画を観ていて、予期せぬところで泣いてしまったことが、このシリーズ映画を好きになるきっかけでした。

寅さんがテキ屋仲間と酔っぱらって「とらや」に連れて来て、さくらに「歌を歌え!」と言う。無理矢理歌わされたさくらが泣きながら歌う「かあさんのうた」に場が静まり返る場面。
僕は号泣したんですよね。
ここからです。他の寅さん映画も観てみたいと思ったのは。
この当時「泣く映画が一番」だと思っていたから。(今はそうでもないですが)

よく考えたら、「寅さん映画」は高度経済成長の波に乗り切れず、世間から取り残された「やくざな人間たち」の物語なわけで、これって「イージーライダー」の世界と共通するものがあるわけで。

そうして、何年か経って観た1作目も泣いてしまいました。この映画には泣き所が4ヶ所もあるんです。30分置きに1回泣いて、もう泣かないだろうと思ってる最後にもう一回泣かせてくれます。

この1作目で僕の一番好きな泣き所は、結婚式で新郎:博の父として志村喬が挨拶をするシーン。仲違いをしていた父から発せられた言葉に嗚咽が止まらない。

「8年ぶりに、皆さんの温かい友情とさくらさんの優しい愛情に包まれたせがれの顔を見ながら、親としていたたまれないような恥ずかしさを……。一体親としてせがれに何をしてやれたのだろうか、何という無力な親だったかと……。今ようやく皆様のお陰で、春を迎えられます」といった涙ながらの挨拶。

さて、このブルーレイの画質は驚く程きれい。55年前だとは信じられない。今は亡き名優達の演技が見られるのもこの映画を買った理由です。日本映画は5,000円前後と洋画に比べて割高なので、おいそれとは買えないのですが、この映画は2,500円。溝口、黒沢の映画もこれぐらいになればいいんだけど。

男は

しかし、このBOXセットは誰が買うんだろう。

 

2024年6月1日(土

<僕の母方の祖母は東北弁をしゃべっていた >

でも、僕の母が東北弁をしゃべっているのは聞いた事がありませんし、僕も全くしゃべられません。
それには、昭和という時代が関係しているんですよね。
今回はそんな話をしてみます。

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昨年の秋に田舎に帰った際、弟くんの奥さん:恵美ちゃんから「お母さんの戸籍謄本とかあるんですけど、見ます?」と渡され目を通してみた。こういうのを見たのは初めてだったので、写メで撮って家に帰ってからじっくり見てみることにしたのでした。

なぜこんな書類が弟くんの家にあったのかというと、86歳で亡くなった母からの相続のために戸籍謄本が必要だということで、恵美ちゃんが福島県から取り寄せてくれていたのでした。その時に母が持っていた古い写真も見せてもらいました。

佐藤家

写真の一番右が僕の母親(和子)です。
そのとなりが三女(洋子)、後ろにいるのが僕の祖父:正と四女(千代子)で手前が祖母のマツミです。

戸籍謄本によると、僕の母、神原和子の母(つまり僕の祖母:マツミ)は

明治44年(1911)、福島県大沼郡東尾岐(おまた)村生まれ。旧姓:川島。

尾岐(おまた)村がどこにあるのかGoogleで調べてみました。

尾岐村

福島駅から車で1時間42分、かなり山奥に入った村のようです。
僕は福島には行った事がないので、どんな所かさっぱり分からない。

そんな場所で育った人が、どういう出会いかわからないけど、昭和3年(1928)、新潟県出身の佐藤正と結婚。
その後、軍人だった祖父(正)はテニアン島(北マリアナ諸島)に配属されることになり、妻マツミは夫とともに移住することになります。

【テニアン島】は・・・

テニアン

日本から南へ2500キロ。太平洋の真ん中に浮かぶサイパン島の北東にあるのがテニアン島。太平洋戦争後半の昭和19年、日本の支配下にあったこの島にアメリカ軍が上陸。激戦の中で、軍人と民間人、合わせて1万人以上が犠牲になった島です。

Wikipediaには次のように書かれてあります。

『大正15年(1926年)に日本政府の後押しを受け、テニアン島の開発を請け負った南洋興発は、沖縄、福島、山形などから移民を集め、砂糖やコーヒー、綿花の生産を開始させた。その結果、昭和初期にテニアンの砂糖の生産量は、台湾に次いで東洋第二位の生産量となり、サトウキビ栽培の一大拠点として発展していた。
労働を担ったのは、農村出身の貧しい人々で、彼らに移民を決意させたのは、ふるさとを離れる代わりに示された破格の条件であった。』

ただ、テニアン島の開発が始まったのは1926年で、その2年後に佐藤夫婦は結婚してテニアン島に移住しているので、『集められた移民』ではなくて軍隊からの配属だから、”貧しさゆえの移民”ではなかったようだけどどうなんだろう。移住した人に親戚でもいたのかな?

仕事はサイパン島のサトウキビ栽培だと母から聞きました。当時のサイパン島でのハードカバーの写真集(アルバム)が家にあって(今はないけど)、サトウキビ列車の写真とかありましたね。

そして、昭和5年(1930)に母:和子を出産。
戸籍謄本には「南洋群島テニアン島マルポ人夫宿舎ニ於テ出生 昭和五年拾月参拾壱日サイパン支局ニテ入籍」とありました。

ただ、子供の頃、母からは「私はサイパン島で生まれた。」と聞かされていたので、住んでいたのはサイパン島なんでしょうね。

その2年後、昭和7年(1932)に次女:正子が生まれるもすぐに死亡。
そのまた2年後、昭和9年(1934)に三女:洋子がテニアン島で生まれる。
翌年、昭和10年(1935)、サイパン島でサトウキビの生産に従事し、四女:千代子がお腹にいた頃、三女:洋子を背負い汽車に乗ろうとした時、足を滑らせて汽車に轢かれ片足を無くした。

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僕が子供の頃、今治市内にあった佐藤家に遊びに行った時、近くの銭湯に祖母と行ったことがあります。義足を付けていたのはもちろん知っていましたが、実際に太ももから下が無くなっている足を見たのは初めてでした。

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翌、昭和11年(1936)、働けなくなったマツミは故郷の尾岐村に帰り、四女:千代子を出産。病気がちだった千代子は名前を礼子に変える。
上の写真は、福島に帰って来た時のもののようですね。母の毅然とした立ち姿が勝ち気な性格を表してます。

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従兄弟に聞いたところによると・・

その後、はっきりとした年は分からないが昭和19年(1944)までの間に正は除隊し、福島から一家を伴って愛媛県今治市の来島に来ることになったという。もし、祖母が事故に遭わなければ、米軍との戦いに巻き込まれていたかもしれず、今の僕がいなかったかもしれないと思うと、複雑な気持ちになります。

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ところで、祖母がしゃべる東北弁は厳密に言えば福島弁なんでしょうが、愛媛県で育った人間にはそんな違いが分かるはずもなく、ズーズー弁だなあ、ぐらいの感じでした。「寿司」はやっぱり「スス」なわけで、そんな東北弁をばあちゃんだけがしゃべるわけです。なんか不思議なんだけど、子供たちはサイパンで育ち小さいうちに今治市に引っ越して来たので、当然と言えば当然。

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来島では、親戚にあたる人が寺のお薬師さんだったため、正も坊さんになった時期もあったらしいが、今治市別宮町の阿部鉄工所で働くことになり、一家はその社宅に住んでいた。

昭和19年(1944)、五女:恵美子が今治市で生まれる。
昭和20年(1945)、太平洋戦争が終わる。
昭和22年(1947)、六女:美智子出生。
昭和24年(1949)、長男:隆が生まれるもすぐに死亡。
昭和26年(1951)、七女:良子出生。

昔の人は2年ごとに子供を産んでいたんですね。本当なら8人兄弟のはず。

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          長女:和子は、今治市大新田生まれの神原宏と結婚。
昭和27年(1952)、神原家の長女:恵子出生。

神原恵子

母親が大事に持っていた写真を、弟くん夫婦がカラー化してくれたものです。

姉の写真はこれしか残っていない。
目がパッチリしている以外は母にそっくりです。(笑)

 

昭和28年(1953)、正が亡くなり(原因不明)、社宅に住めなくなって、栄町に移る。
          同年、神原恵子は腸捻転を患い死亡。
昭和29年(1954)、神原家の長男:博之が生まれる。
          
初孫が亡くなり、その翌年に生まれた僕は母から大事にされすぎたようで、弟が生まれてからもそれは変らず、過保護に育てられたのが原因で、のちに母親から早く離れたい気持ちが強くなり、大学入学を機に、単身大阪に出る事になります。

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昭和36年(1961)、神原家の次男:好男が生まれる。

7歳も歳が違うので、子供の頃は話が合うわけもなく、一緒に行動してた記憶がない。
ただ、弟という存在は僕にとっては、彼が生まれた瞬間から歳を取るごとに両親よりも愛着が深くなっていき、それは今でも変らない。世の中にはいがみ合う兄弟もいるらしいが、全くそんな関係になった事がない。

というわけで、個人的なファミリーストーリーを語ってきましたが、祖母の思い出をひとつ。

いつも会う度ににこやかな顔で僕の名前を呼ぶんですが、「ひろゆき!」というのが「ちろゆき!」にしか聞こえなかったのは、今でも思い出すと笑ってしまいます。

 

<『フレンチ・コネクション』 >

フレンチコネクション

ブルーレイ画質★★★★★

全編手持ちカメラらしいので高画質ではありませんが、それなりにきれいです。

この映画が公開されたのは1971年、僕が高校2年生の時です。その前年、進学校に入学したお祝いにと僕専用の13インチのカラーテレビを買ってもらったのが運の尽きでした。

当時はテレビでの『映画劇場ブーム』。毎日、どこかの局で映画(特に洋画)が公開されていたし、町の三番館では5日単位ぐらいで3本立ての古い映画が200円で上映されていたので、暇さえあれば映画を観ていました。

映画ばかり観ていたせいで、勉強がおろそかになり(頭もそれほど良くなかったので)、高校2年で成績は中の下まで落ち、授業には付いて行けず、映画に没頭していた毎日でした。

そんな時に観たこの映画に心を奪われました。

主演はジーン・ハックマン。
「俺たちに明日はない」で助演をしていた俳優でしたが、この映画を観て一気に好きになりました。

同じ年に公開された「ダーティハリー」もそうですが、勧善懲悪なヒーロー映画が姿を消していった時代背景でしたが、イーストウッドならまだまだ憧れのヒーローとしての佇まいがありました。しかし、この映画の主人公は「嫌われ者」に近い。それが映画として、斬新だったのかもしれないですね。

ドキュメンタリー映画風のアクション映画を観たのはこれが初めてだと記憶していますが、すごく生々しいニューヨークの警官の日常、息詰まるカーチェイス、緊張感半端ない映画でした。

ちなみに、一番下のガール・グループは「スリー・ディグリーズ」。1974年には日本にも来日して、ちょっとしたブームになったグループでしたが、この映画で使われた曲がネットにありました。

Three Degrees - Everybody Gets To Go To The Moon

ただ、このガール・グループ、メンバーが激しく交代しているので、顔は一切見覚えがありません。

かつて、筒美京平作曲の「苦い涙」という曲も流行りましたね。

「苦い涙」

スタジオライブ

あまりに好き過ぎて、パンフレットの写真を壁に貼ってました。それがこれ。

フレンチ2

ハックマン

渋いです。






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