できるまで

第二章:カンテでの楽しかった日々

第一章では、幼年期を過ぎて物心がつくようになってから24歳までを振り返ってみましたが、自著「チャイの旅」の萌芽がはっきりと僕には発見できました。
 ただし、ここまでだと、まだ「核」になるものがないんですね。つまり、僕の心の中心はまだ空洞のままなんです。なので、第二章では、その「核」となる「カンテ・グランデ」との出会いと、そこで得たものは何だったのかを振り返ってみようと思います。

その1:座右の書「茶の世界史」角山栄著 中公新書 1980

茶の世界史

アメリカ旅行から帰ったのが1980年の8月。
 今から思えば、この時、僕の人生は「リセット」されたようです。
 アメリカを旅行したことでそれまでのもやもやとした気分は一掃され、空っぽになった僕はまた一から新しい人生を始める、そんな感じといえばいいんでしょうか。

 日常的にはカンテでアルバイトの日々が続くことになったのですが、今度は中津から梅田の地下街(現ホワイティ梅田:泉の広場)に行ってくれと言われました。なんでも、急にスタッフが4人ほど辞めて、急遽集められたバイトの中に僕もいたというわけです。

 ここの店も中津店と同じくメインはポットで提供する紅茶で、チャイもありましたがそれほど注文は多くありませんでした。まだまだ、チャイは市民権を得ていなかったんですね。
 で、ここは、昼夜問わず平日でも混んでいる人気店で、お昼のランチやケーキセットとかがないのに、毎日のように列が出来ていました。人気の理由は、紅茶が美味しかったというのもありますが、手作りパイが食べられることでした。中でも、チーズパイはクセになる味で、リピーターが多かったみたいです。僕もチーズパイは大好きでした。
 まだこの頃はメニューにカレーもなく、食事といってもサンドイッチぐらいしかなかったので、カウンターの人(飲み物担当)は大忙しで、オーダーが多いときは、チャイを作るのに手間と時間がかかることもあって、ポットの紅茶を出すのにも影響して、伝票が一列7枚で3列並んぶこともしばしば。(それでも、当時はチャイの一杯点てにこだわっていたので、作り置きはしなかった。)だから、ここで半年間、毎日紅茶をいれて、飲んでかなり鍛え上げられたので、どれが何の紅茶なのかが分かるようになり、紅茶の美味しい入れ方のコツも自然と身に付きました。

 半年後、中津店で配達の人が辞めたらしく、免許を持っていた僕が代わりに配達要員として中津に戻る事になりました。
 配達の仕事はというと、お昼2時に出勤し、中津本店で作ったパイを梅田店と阪急ファイブ店に配達して中津店に戻り、そのまま厨房やホールの仕事に入り、5時ごろ休憩して食事を取り、10時まで働くというもの。アルバイトでしたが、1日7時間勤務で週6日、25日間フルタイムで働いたこともあります。仕事は全然いやじゃなく、「紅茶って面白いなあ」とか思ったり、働いているバイト同士仲良くなれたし、定休日には一緒に遊んだりもしました。

 ちょうどその頃出版されたお茶の本がありました。
それが「茶の世界史」。1980年に出版。まるで、僕のために出版されたような本です。
この本は、ダージリンとアッサムをインドから直輸入されていた宮崎さんという方に紹介してもらった本です。
 宮崎さんは、自分の仕入れた紅茶を扱ってもらっているお店に頻繁に訪れていて、カンテにもよく来てくれていました。当然紅茶に詳しいので、よく質問に答えてくれていて、その時にこの本も紹介してくれたと記憶しています。
 この本が面白いのは、「ヨーロッパに渡った最初のお茶は、日本茶だった。」という話から始まるところです。
 日本の茶の湯は「精神文化」なのですが、それがヨーロッパに渡ると「物質文化」に変化し、わびさびの世界からは一番遠い所にある豪華主義へと発展し、ついには「紅茶」は、流通網を駆使して「世界で一番飲まれている飲み物(商品)」に定着したのです。この本で、ヨーロッパ人の嗜好が緑茶から紅茶へと変化する経緯を知る事で、また新たに紅茶に対して興味が湧きましたし、お茶のルーツ、中国にも興味が湧きました。
 今でも、チャイのワークショップやトークショーの前にこの本を読み返して、お茶を再認識したり、何を話せばみんなが興味を持つかをまとめたりしています。

 少しでも紅茶をおいしいと思ったら、この本を手に取ることをお勧めします。今まで知らなかった紅茶の世界が目の前に広がるはずです。

 

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