できるまで

第一章:カンテ以前

その10:青年の教科書 月刊「ニューミュージックマガジン」

 ミュージックマガジン

 高校時代、成績が悪かった僕は映画に現実逃避。当然ながら、現実が垣間見える日本映画は無視して、現実離れした外国映画を年間100本以上は観ていたと思う。映画を観ている間は「ファンタジーな世界」を満喫できるので、ある種、麻薬のようなものかもしれませんね。それでも、観たい映画はたくさんあったにも関わらず、愛媛県今治市には来なかった。映画の事を話せる友達も1人しかいなかったので、大学は絶対、県外、大阪か東京にしようと思っていた。

 成績が良くなかったので国立や有名大学はあきらめ、それに浪人もしたくなかったので試験の早かった関西大学社会学部に受かったところで他の大学の受験は止めて、入学。大学で勉強はしたくなかったけど友達は欲しかったので、念願の「映画研究会」に入りました。ところが、そこで出会った先輩達はみな映画をあまり観ていない人達ばかり。1973年の世の中の映画好きな大学生には「ゴダールと政治と自己変革」の話が蔓延していた時代でした。そんな話、一般的には面白いわけないから4人いた新入部員はみんな辞めて行ったんだけど、19歳の僕は馬鹿だったこともあり先輩達のように賢くなりたいという気持ちもあって、部員は辞めなかった。「なんか面白くなるはず」だと信じていたからかもしれない。

 大学に入って下宿生活が始まると、三畳一間の部屋が僕のすべてになった。部屋には先輩が残して行った机と今治で買った本棚と電気スタンドと13インチの白黒テレビと布団が一組、大学の生協で買ったファンシーケース(ビニール製の衣装ケース)と電熱器と鍋と湯沸かしポットがあるだけ。でも、親元から解放された喜びは何ものにも代え難かった。

 高校時代、ステレオを持っていた友達がうらやましかったので、アルバイトをして、まずレシーバー(チューナーとアンプが合体したもの、つまりラジオのでっかいヤツ)とヘッドホンを購入してFM音楽を聴き始めた。3ヶ月ほどお金を貯めて、次にレコードプレーヤーを買って、ジョージ・ハリソンの「リビング・イン・ザ・マテリアル・ワールド」を買った。インナースリーブにはなぜか、インドの神様クリシュナの絵が入っていた。(当時ジョージはインドに心酔していて、その想いを音楽に託していたわけですが、僕がインドを好きだったわけではなくて、ザ・ビートルズのジョージが好きだっただけ。)
 次にスピーカーを買って、やっとステレオセットが完成した1973年10月、ワクワクしながら「NEW MUSIC MAGAZINE」を買った。
 この雑誌は、1969年創刊の「単なる音楽紹介のみならず、音楽の背景を分析、批評する新しい『音楽ジャーナリズム』を提起した。」もので、高校時代、ロック好きの「あっちゃん」がこの雑誌を愛読していて(もちろんレコードも何枚も持っていた)、その姿に憧れたというのがありました。
 当時のロック好きの人は、この雑誌のレコード評を読んでから買う、買わないを決める「指標」のようになっていました。僕も同様です。
 記念すべき11月号の表紙は矢吹伸彦の描いた「ザ・ドリフターズ」。内容はかなり過激な文言が散見できます。
・内田裕也のアメリカ・イギリス特別取材「LONDONもTOKYOも闘っている」「ぼくは商品として売られることを拒否する」
・最近のロックの評価をめぐる対論
・ロック研究セミナー「40〜50年代の黒人ボーカルグループ」
・編集長の「とうようズ トーク」の出だしは「チリのアジェンデ政権がついに倒れた。」
・ちなみに、今月のレコードと題した採点表で、ローリング・ストーンズの「山羊の頭のスープ」は86点。
採点者は亀渕昭信。

「(前略)全10曲、息もつかせぬスリリングな・・・といけば良いのだけれど、なんたって、俺たちお客さんは、さんざんジラされ、待たされて、なんかこう、聴かせていただく、という雰囲気漂って、期待が大きすぎるせいか、ストーンズのアルバムは良いことに決まっているせいか、はっきり言って、余り新鮮味感じない。(後略)」

 今どの雑誌のアルバム評を読んでも、こうした「御大」と呼ばれるスターに対する愛情と本音が吐ける人って少ないです。かなりの論客じゃないと「ツッこまれる」時代だからかなぁ。
 

前ページへ  前説&目次へ  次ページへ

 

copyright 2017 canbara  canbara1954@gmail.com