できるまで

第一章:カンテ以前

その14:浅井慎平に憧れていたと思っていたらそうではなかったという話

コマーシャルフォト

いつ頃から写真が好きになったんだろう、と記憶を遡って行ったら、朝日新聞に辿り着いた。
 僕は左利きだから、新聞を読むときは左ページの番組表からめくって行くので、政治に無関心になった、ような気がする。(こじつけだけど。)代わりに広告のページが好きでした。今でも覚えているのが一面全部サントリーの広告で、ウイスキーの記事を読んで、質問に答えてハガキを送ると「何か」がもらえた。その何かは当たらなかったから何だったのかは覚えていないけど。その広告は「サントリーオールド」だったと思うんだけど、写真がカッコよかったのは覚えています。
 もうひとつは日本光学「ニコン」の広告で、「NIKON F2 フォトミック」というカメラがロケットに積まれて宇宙へ行ったというのが僕にとっては衝撃で、宇宙空間で宇宙飛行士の持ってるF2は今でもはっきりと思い出せます。この広告は1972年だから、この頃から無性にカメラが欲しくなったみたいですが、「何かを撮りたい」という気持ちがあったわけではないのは、単に物欲があっただけなんですけどね。

 さて、大学で8ミリ映画を始めた翌年、バイト代を貯めて、長年の夢だった一眼レフカメラを買いました。もちろんカメラを買うなら「NIKON」と決めていましたが、「F2」はレンズを含めると20万円ぐらいしていたから、おなじニコン製でもツー(スリー?)ランク下の「ニコマート」を買う事にしました。これなら8万円ぐらいで買えたと思う。レンズは50ミリとのセットでした。50ミリというのはいわゆる「標準レンズ」とされているもので、目で見たのと同じ風景がファインダー越しに見えるのという初心者泣かせのレンズ。センスもないのに見たままが写るなんて、面白くもなんともないというのが僕の感想でした。ファインダーを覗いた瞬間、カッコいいものが見えたらシャッターを押せるのに、何にもカッコいいものは見えないんですから。「撮る者の意識によってシャッターを押す」ことがその時はまだ分からなかったんですね。だから、カメラは、しばらくは何年もほったらかしたままでした。

 大学を卒業したら「好きなことなら長続きするだろう」と思い、写真やデザインや広告を扱う印刷会社に就職しました。最初に回された部署は、家電会社の海外向け広告のデザイン室のルート営業。
「フライヤー」と呼ばれる一枚ものの家電のチラシで、変形A4サイズ、表面カラー、裏面グレーの印刷。これを1年間担当したので、デザイナーがどうやって版下を作り、どうやって写植を手配し、どうやって印刷に回すか、身を以て体験しました。しかし、この時点でもまだ、写真とは何か?が分かってなかったから、写真は「記念写真」程度しか撮っていませんでした。

 そんな時、僕に衝撃を与えた写真が現れました。水着のメーカー「ジャンセン」のCMでの浅井慎平のイメージ写真です。その写真は、後にコマーシャルフォトの表紙になりましたが(上の写真)、梅田の地下街を歩いていた時、柱に目一杯でっかいこのジャンセンのポスターが貼ってあったのを見てドキッとしました。プールの水しぶきだけの大胆なコマーシャル。撮影したのが浅井慎平だと知り、興奮したのを覚えています。
「見えているものを写して、同時に見えていないものも写す」
これ以後、何かが僕の中ではじけました。

 入社した印刷会社には「写真部」があったので入部させてもらうと、そこにはカメラに詳しい人がいて、よくよく聞いたら、町の写真館の息子さんで、子供の頃から写真を撮っていたらしい。
一度お宅におジャマしたら、機関車の写真や祭りの写真が額に入って飾られていて、とてもシャープな写真でしたが、まあ、それは「うまい!」というだけで、僕にはそれほど興味のある写真ではありませんでした。
 が、その時見せてもらった親父さんにもらったというキャノンのカメラがすごかった。レンジファインダーカメラに別ファインダーを装着したもので、フィルム送りは本体下部にあるかなり年季の入ったカッコいいカメラで、そのファインダーを見てびっくり。全然掃除してないので、ゴミがびっしり付着していたのです。ボディーもへこみがあった。
ここでまた、何かが僕の中ではじけました。
「カメラなんて大事にしてたらダメだ!」・・・家に帰って、カメラからカバーを外してゴミ箱に捨てました。

 ある日、その先輩に「神原、面白そうな撮影会があるので行かないか?」と誘われて行ったのが、鈴鹿サーキットでした。昼間にサーキットでレース用の車を撮影して、夜に講演会があるという。その講演者が、篠山紀信と浅井慎平。これは行くしかない。
 撮影会はというと、レース用の車を撮影するには望遠レンズがないとダメなのに、標準レンズしか持っていなかった僕は全くいい写真が撮れませんでした。この時初めて、レンズのことが分かりました。
そして、その夜、講演会が始まりました。最初は、スライドショーで、講演者二人の写真がカッコよく編集されて流されました。流石にプロ。どちらもスタイルは違うけどが刺激的でした。そのあと、二人が並んで席に座っての対談形式で講演は30分ほどで終了。
 当時、篠山紀信は超人気者で、アイドルや女優の写真をバンバン撮っていたので、参加していたカメラ好きのかなり年配の親父連中(イヤなヤツが多い)は、対談が終わると、我先に握手やサインを求めて殺到しましたが、浅井慎平はそんな親父達には人気がなく、誰も寄り付かない。それを見た僕は「ラッキー!」とばかりに彼に近づいたんですが、色紙なんか用意していなかったので、「そういえば!」と講演会の入場券をポケットから出して、「サインしてください。」とそのチケットを渡してサインしてもらいました。
 僕はその時はその「サインのもらい方」がちょっとかっこいいとは思ったんだけど、当人はどう思ったんだろうなあ、と今は思いますけど・・・。

 これ以後、僕は「浅井慎平」の名前を雑誌や単行本で見つけると、なんでも買ってしまいましたが、彼の写真に対する想いとかには全く共感しないのです。写真も単体で見た時にはそれほど凄いものを感じ取る事もありませんでした。これって、なぜ?

 「分かった!」・・・雑誌や広告の中の浅井慎平の写真は、その使われ方が 「衝撃」だったんだ!
つまり、広告は写真家だけでは作れないですよね。全体を見つめる「エディトリアルデザイナー」とかその広告のプロデューサーとか、その写真の使われ方で広告の善し悪しが別れるというか。

「そうなんだ!」・・僕は、写真を写真だけで完結させるそういう写真が撮りたいんじゃない!
とこの時、思ったんです。
 僕が憧れていたのは、写真家ではなくて「エディター」(編集者)だったのでした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

参考までに・・・1971年にニック・フォスターという人が、同じような(違うと言えば違うけど)写真を撮っています。浅井慎平もこの写真を見ていたのかなあ、とこの写真を見て思いました。

波

前ページへ  前説&目次へ  次ページへ

copyright 2017 canbara  canbara1954@gmail.com