[ 神原通信 ]


2025年5月17日(土

<「チャチャッとチャイ講座」

チャイ講座

「YouTubeの動画を作りましょう。」と言ってくれたのは、市役所の職員で僕の「チャイのワークショップ」を企画してくれた中田さんでした。

中田さんは、僕が2015年、1年半市役所の臨時職員として働いていた部署があった同じ階の人で、あまり市役所の職員然としてなくて、話しかけやすいタイプの人だったし、紅茶が好きだと言っていたので自然と仲良くなった感じでした。でもお互い仕事が忙しかったこともあり、余り話もせず僕は仕事を辞めて、マンションの管理員になってしまい、彼は市役所の出張所である千里文化センターに転属になっていました。

それから5年、中田さんから一通のメールがやってきます。
「市民向けにチャイを飲む企画やワークショップを一緒にできないかと考えています。」と。

2022年のハードな「チャイのワークショップ」に疲れていた僕は、「人数を少なくしてくれたらやります。」と返事。これで実現したのが一回目。

そのワークショップは好評だったので、「翌年も」と言う話はあったんですが、「2年連続でなんでチャイ?」という上司を説得させるため、「中央公民館のオンデマンド講座の一環として『チャイの講座』を動画でアップし、同時に『チャイのワークショップ』も開催する」という企画書を作ってくれたんですね。

まずは動画を撮影。中田さんは撮影も編集も初めてだったので、大丈夫なのかな?とは思ったんだけど、助手の加藤さんとともに考え抜いた演出やカット割りを撮り終え、編集したラフを見せてもらったけど上々の出来でひと安心。

本来は3月末にはネットにアップの予定だったのが、予期せぬトラブルで5月にずれ込み、16日にめでたく公開日を迎えたというのが経緯です。

友人には好評で「YouTuberになったの?」と聞かれたりしますが、そうではなくて「記念」として作ったものです。

さて、次は何をしようかな。

 

 

2025年5月2日(金

<「チャイとカンテのよもやま話」結果と付け足し話

木下&神原

どうですか、この笑いっぷり! この日は二人ともこの上なく上機嫌でした。(笑)


 4月17日、木曜日という平日にも関わらず、わざわざ豊中の分かりにくい場所にある古民家まで足を運んでくださった人達に感謝します。(道に迷った人約1名)

10畳ぐらいの畳の部屋にテーブルが5つほど 。そこに12人の方が座って、僕の持ち込んだ資料を見ながらよもやま話を聞くというスタイルで、前半1時間半、休憩を挟んで後半1時間半。

前もってしゃべる内容を考えてはいましたが、順序立ててしゃべるのが下手なので、行き当たりばったりの話になりましたが、皆さん、僕の話にうなづいてくれたり、聞き耳を立ててくれたりして、僕としては楽しい時間を過ごせましたし、終わった後も余韻を楽しむかのような方が何人かいらして「もっと話を聞きたい」風ではありました。(笑)

さて、持ち込んだ資料というのはどういうものかというと、「カンテと神原の関わり年表」と「カンテと神原の栄枯盛衰表」というもので、前者は「僕がカンテと出会う前の社会的背景を拾いだして説明し、その後僕がカンテと出会ってのちどういう風に両者が絡んでいき、どういう経緯でカンテと決別したのかを年表としてまとめたもの」で、後者はそれを「折れ線グラフで表現したもの」です。

文章にするとなんとも大げさな感じですが、実際は僕の個人的な年表の隙間にカンテとその時々の社会情勢を織り込んで、「あの頃カンテと僕はどうだったの?」という事実を書き込んでいったものなので、「カンテ」を知ってる人は笑えるけど、そうじゃない人は・・・という代物ではあります。

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今思い返すと、トークショーで話せなかったことがたくさんありました。そりゃそうですよね。僕の歴史は70年、カンテとの関わりも40年近くあるから、それを3時間でしゃべるのは無理というもの。

そんな中から、「特にこれは言っておいた方がいい」ことを書いてみます。

<なぜカンテは流行ったのか>

1)オーナーが資産家だったこと
  お金を持っているかどうかで商売のやり方が変わります。店舗にお金を掛けられるのであれば掛けた方がいいに決まっています。とびっきりおいしいものが味わえるのでなければ、貧乏臭い店には行きたくないでしょうからね。オーナー曰く「初代の中津カンテには、今の金額で5000万円ぐらいかけた」と言ってました。話半分でもすごいです。

2)オーナーが美術系でセンスがよかったこと
  オーナーがアジアや中東への旅で得たインテリアの審美眼にはスタッフの誰もが感心し、店長達がカンテのインテリアを任されても真似できなかったほどです。カンテに似た喫茶店も巷にたくさんありましたが、見え透いていて次元が違いました。

3)そのセンスを店で活かし、女性たちがそれに憧れを持ったこと
  インテリアと相まって、珈琲ではなく紅茶を選んだことも流行った要因のひとつでしょう。1970年代初頭は、珈琲文化は男のものという印象が強く、女性には珈琲が苦手な人も多く、英国風の紅茶文化に魅力を見いだしたことも関係していると思われます。その後の女性たちがアジアの民族的な文化やファッションと結びついた時、そこにカンテがあったのでした。梅地下店の内装は最初中東的なイメージでしたが、時と共にアジア、特にインドと密接につながりを見せ始めます。そこに女性の目が向けられたのです。

4)流行の波にのれたこと
  「紅茶とお菓子ブーム」、「エスニック(ファッション)ブーム」、特に「カフェブーム」の頃、カンテを見本にしたような店が沢山でき、カンテは「老舗カフェ」として君臨できた時代がありました。僕自身「大阪でカンテを知らない人はモグリだ」と豪語していました。

5)競争相手が少なかったこと
  珈琲店とは客層が違ったので競争にはならず、「加奈泥庵」や「ガネーシュ」といったアジア系のお店や、あの英国式の「アフタヌーン・ティー」でさえ、カンテとスタッフやお客さんを共有できていたというのも、カンテが一目置かれた存在だったことの証明でもあります。

6)口コミで広まったこと
  何よりも効果的だったのが「口コミ」です。「変った店があるから一度は行ってみるべき」という信頼の置ける友人たちが発する情報は今でも珍重されますが、当時はさらに有効でした。僕がカンテと出会ったのも、同じ会社の同僚からの口コミでした。

7)ウルフルズがあちこちで宣伝してくれたこと
  彼らがカンテを「聖地」にしてくれたおかげで、カンテは全国区になれました。彼らの万博会場でのライブ「ヤッサ!」の前後には、北海道から沖縄まで沢山の人がカンテに押し寄せました。

こうして、大阪では知る人ぞ知るお店になったカンテも、栄光は長く続かないのが世の常。
「スターバックス」の登場です。彼らとカンテの違いはなんなのか、調べてみました。

<スターバックス(店舗)の特徴>
・ソファや落ち着いた照明など長居したくなるようなインテリア
・通りに面したオープンテラス
・店内全面禁煙
・フレンドリーな接客
・"Third place"(家庭でもなく職場でもない第3の空間)をコンセプトとして掲げる。

カンテと被っているようで、被っていない部分もありますね。
「長居したくなるようなインテリア」「第3の空間」というのは同じだけど、「スターバックス」はオープンで明るくフレンドリーなイメージですよね。つまり健康指向かな。

それに比べてカンテはどちらかというと「穴ぐら」のイメージが強かった気がします。外界との遮断、閉じられた時間と空間、悪く言えば「不健康」なイメージで売ってきたお店だったのに(それが僕としては自慢な世界観だったのに)、売上が下がるにつれ世間を気にするようになってからは、外から丸見えでオープンな世界へと変貌し社会に迎合するようになったと思います。

時代が求めたカンテが、時代から外されたカンテになったのは、やはり必然なのでしょうね。
ま、僕はカンテの良き時代を楽しめたので、良しとしましょうか。
そのおかげで、僕のよもやま話(よた話)を聞いてくれる人達もいることだし、昔を懐かしんだり、憧れを抱いたり、夢を見たりしてくれて、僕は幸せです。

まだまだ言い残したことはたくさんあるけど、それはまた次回の「お話会」のお楽しみ。
今回はありがとうございました。

ところで、写真の方は誰なのか?というと、インスタのアカウント名 do-mo.54166 さん。
実はよく知らないんですが、京都:恵文社さんでのワークショップ、千里中央でのワークショップ、そして今回の「お話会」に来てくれました。というか、こういう謎めいた方には「来て欲しかった」ので、定員10名のところ弟子枠で来ていただきました。
聞くところによると「インド狂」らしいです。ワークショップでの手鍋さばきは見事でしたし、色々と試行錯誤しながらチャイを作っているというのも僕の興味をそそりましたし、何しろ着物姿が独特で、唯一無二な感じがいいです。派手だけど嫌味がない。カンテもそうでしたね。(笑)

 

2025年3月17日(月

<「チャイとカンテのよもやま話」

チャイのワークショップの相談から転じて僕のトークショーを開催してくれることになった、というお話です。

カンテの元スタッフ:マツリカちゃんが運営している『けせら工房』というのがありまして、彼女と一緒に畑で野菜を作って販売している人が、豊中市中桜塚にある古民家を昨年から5年間の契約で借りて、仲間を集い「商い」をされているんですね。

ある時、チャイの話になったらしく、マツリカちゃんが「そういえば古民家の近くに元カンテのチャイマスターが住んでるから、チャイのワークショップをやってもらったら?」ということで僕のところにメールが来たと、そういうことです。

古民家の場所を聞いて調べたらなんと僕の家から歩いて10分ぐらいのところにあった!

「じゃあ、一度相談しましょうか?」ということで、いつものように「秘密の神原部屋」に来てもらって色々と話をしていくうちに、特に「カンテ」の話が面白かったみたいで、「ワークショップの代わりに、古民家でもっとカンテや神原さんのことをしゃべってくれますか?」と。

「最低でも10人集めてもらわないと僕の日当が出ないので、集められたらやります。」

丁度4月は、その古民家で商いを始めてから1年になるので、それを記念に僕のトークショーを企画してくれたのが今回の催し物というわけですね。

下のちらしは、主催者側の気持ちが伝わるなかなかいい文章です。

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よもやま

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「昭和100年企画」ということですので、昭和の半分を生きてきた僕の生き様を中心にしゃべってみましょうか。

さて、それはいいんですが、この古民家、実に分かりにくい場所にあるんです!
昔ながらの同じような民家が建ち並ぶその地域は、目印になるようなものが少なく、道がくねくねしていて、いちど迷うと方向感覚がなくなり、地図を持っていても自分がどこにいるのか分からなくなるという、正に迷路。

なので、参加者の中には初めてこの場所に来る人もいると思うので、そんな人に分かるように地図を作ってみたのがこちらです。→<古民家nokisaki+の地図>

この地図でもたどり着けないかもしれないけど、その場合はGoogleマップで住所を検索して自力でおいでください。

住所は、豊中市中桜塚1丁目11-10 です。

インスタグラム:古民家nokisaki+

テレビ大阪の番組で紹介された時のもの(2025年2月)
【ナジャ&前田アナ】大阪・豊中で発見!謎の民家カフェ【片っ端から喫茶店】

 

2025年3月1日(土

<友達に会う

二日前、久しぶりに宇高君と会ってきました。

宇高君とは同郷で家が近く、幼稚園が一緒だったので友達になり、小学校と中学校は一緒、高校と大学は別だったけど、ずっと友達でいられる存在であり弟や奥さんと同じぐらい大事な人でもあります。

彼と「ずっと友達でいられる関係」とはどういう関係なのかというと、「相手の事が気になる関係」と言うんでしょうか。同じ背格好で、同じ環境で育ち、同じように田舎を出て、同じように歳を重ねていると、ふと立ち止まり「あいつは今何をやってるんだろう?」と気になりとりあえず連絡してみる。「生きてるか〜」って問いかける。「生きてるよ〜」と答えてくれる。そんな関係。ある意味、自分の分身がどっかで僕と同じように、でも僕とは違う生活を送っているのを時々確かめてみる、そんな関係ですね。

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高校を出て僕は大阪の吹田で普通の大学生に、宇高君は富田林の美術系の学校へ。
僕は賄い付きの学生下宿で、彼は民家の1階を借り切り自炊に励む暮らし。

一度、彼の住処へ行った事がありましたが、晩ご飯にハンバーグを作ってくれることになったんだけど、1時間経っても料理は出て来ず、2時間ぐらい経って、お腹がぺこぺこになった頃やっと食事にありつけた。おいしかった。
何事も凝り性で、ある時、彼が荷造り用の紐で編んでくれた肩掛けバッグを1年程使っていたことがありました。

ふたりともロックが好きで、彼の方が早くロックに目覚めたので、よくレコードを借りてました。ローリング・ストーンズ、ロッド・スチュアート、レッド・ツェッペリン、スティーライ・スパンなど、彼から教えられたアルバムは数多い。

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前置きが長くなったけど、メールでは3年前に連絡した記録があるけど、会うのは7,8年ぶりかも。

相変わらず、足を引きずるようにひょこひょこ歩く。いつもの笑顔。
待ち合わせは、あべのキューズモールのスタバ前。
彼は奈良に住んでいるので、豊中と奈良の中間地点がいいかなと思い、ここに決めた。平日の13時だったらスタバでゆっくりしゃべれるかな、とか思ったんです。

ところが、会うなり「食事は近くに『KYK(とんかつ屋)』があるからそこでいい?」「どこでもいいよ。そこへ行こうか。』

陸橋を渡って通りの向こう側へ行き、路地を入るとお店があった。

「ランチがあるからそれにしよう。」彼はメンチカツ定食、僕はヒレカツ定食。

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僕は29歳で結婚してカンテの仕事に没頭している頃、彼は理容店の店先にあるクルクル回る看板を作る会社に入り、仕事の合間に抽象的な造形作品を創作して個展を開くという生活。その後彼も結婚。

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50歳の頃、僕はカンテでギャラリーのブッキング担当をしていたので、「カンテで個展をやってみる?」と声を掛けたこともあります。1週間の個展の合間を縫ってギャラリーでレコードコンサートをやってみた。お客さんは誰も来なかったので2人で、ロックのレコードを掛けまくった。

その後何年かして彼は離婚。
転職して、アメリカのサン・ディエゴでプラズマテレビを造る工場の主任をしていたこともある。時々、メールやはがきが来て、ビーチの写真やヨセミテ公園の写真を送ってくれた。アメリカの西海岸で行われていた数々のロックコンサートのライブ話もしてくれた。

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「KYK」で食事をしながら色んな話が飛び出して来た。

去年の7月に個展の会場で知り合った女性と意気投合して、今度結婚するそうだ。彼女も同年代で、作品も造ってるし、音楽の趣味とかも合うみたい。婚姻届は出さない事実婚で、今はお互いの家からの通い婚だとか。

今は仕事も辞めて年金暮らし。安い奈良の古民家を2軒買ってアトリエにしているらしい。
彼は僕と同じく昔からオーディオやパソコンが好きで、今でも70〜80年代の音楽をガンガン聞いているそうだ。今度はサラウンドを考えているとか。

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僕は彼のそういう自由奔放さが好きだ。昔から彼は発想が自由だった。
僕たちふたりは中学生の頃、電池で動く戦車のプラモデルが好きでよく競走させてたんだけど、高校に入って戦車を塗装するのが流行った頃、僕は説明書通りにペイントして彼の家に持って行ったら、彼はなんと戦車をピンク色に塗っていたのだ!

ピンクの戦車!?
それもきれいに塗るとかじゃなくて、思いに任せて塗りたくっていたのだ。
僕には絶対にそんなことは出来ない!

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食事が終わり、「キューズモールのフードコートでコーヒー飲もうか。」と僕。
店の外に出たら、でっかいビルがあって上を見上げたらひっくり返りそうになった。
「これがあべのハルカスか。でかいなぁ。」

キューズモールもでか過ぎて、入口からフードコートに着くまで5分以上かかったけど、ミスタードーナツでフレンチクルーラーとブラックコーヒーをひとつずつ買って話を続けた。

「これから先どうすんの?」

「田舎には帰らないし、ここで過ごすんだろうなぁ。三重県の志摩市にもう一軒あるけど、あそこは夏は絶対無理、暑過ぎて。」

「自分、エアコン使わないからなぁ。」

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彼はiPhoneを持っているけど、ソフトバンクとは解約してる。仕事をしてないから電話する事もないからかな。それは携帯電話じゃなくてネットとメールをするだけ。それもWi-Fiで。昔のiPodのようだな。

奈良の田舎に住んでいて、老人会に入ってるって。1ヶ月1,000円。時々食事会があって、1万円ぐらいの食事が出て来るらしい。そのかわり、近所で困りごとがあると参加して手伝うことが条件。

服は今度結婚する人が同じ背格好なので、借りてきたそうだ。
贅沢はしないけど、心は贅沢だ。僕にはできないけど。

とりとめのない話をだらだらと3時間ぐらいして、「またね。」と別れた。

帰りの電車の中で思った。
宇高君は、もうひとりの僕だな、と。
人生という道を歩いていると、かならず道が二つに分かれていて、どちらに進むかによって人生が大きく変わる。宇高君が選んだ道は僕のとは違うけど、たまたまそうなっただけだ。

彼の人間性はこどもの頃とちっとも変ってない。
僕もそうだ。

また何年か音信不通なんだろうなぁ。でも、彼はいつまでも僕の友達です。

 

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