カンテ写真部

その6

photo : kanbara



<ネパール/ナガルコット 1986>

前にどこかで言った事がありますが、カンテに入るまで、全くインドやネパールには関心がありませんでした。

僕の生まれ育った年代(昭和30〜40年代)は欧米指向全盛で、映画は言うに及ばず、テレビではほぼ毎日のようにアメリカ(&イギリス)製のホームドラマやアクションやSF作品が放映されていましたし、ラジオからは英米の新しい音楽が湯水のように流れていたので、自然とアメリカナイズされている自分がそこにいました。
日本も先進国の仲間入りを果たすために日夜アメリカナイズされていく時代でもあったのです。
小、中、高、大学の間ずっと英米のカッコ良さにしか興味が持てなかったので、1972年にオープンして、徐々にインドに接近しているカンテのことなど知る由もありませんでした。

しかし、僕の中で、そのアメリカ一辺倒の様子が変わってきたのが1976年(22歳)ごろでしょうか。それまでずっと聴いていた英米のロックが頭打ちになって新鮮みが無くなって来ていたし、何か別のものが欲しいと思うようになっていたようです。

そんな時、24歳(1979年)で僕はカンテと出会いました。会社の同僚の女の子から「変わった喫茶店があるよ。」と教えられ、中津本店に行ったのが最初です。庭があって猫がいました。メニューの紅茶がチンプンカンプンでした。店員は若くてかっこよく見えました。「なんて不思議な店なんだろう?」とは思いましたが、まさかそんな店の店員になるなんて全然思ってもみなかった。そして半年後、僕は会社を辞めて、もう一度カンテに行ってみたくなり、友達と中二階に上がってお茶をしていたら、壁に張り紙がありました。「アルバイト募集」
アメリカ旅行が2ヶ月後に迫っていたし、そろそろアルバイト先を探しておいた方がいいかな?とか思い、「一ヶ月後にこの張り紙がまだあれば応募しよう」と思ったその翌月、まだ張り紙は壁に残っていたのです。

「あのう、7月は一ヶ月間旅行でいないんですが、それでもかまいませんか?」

「いいよ。車運転出来るよね?」

「はい、できます。じゃあ、よろしくお願いします。」

世の中が少しずつ「民族的な世界」にシフトしていた時代でしたが、カンテは既に何年も前から第三世界(アジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの発展途上国)にシフトしていて、僕がバイトで入店した1980年6月には社長の井上さんはインド、ネパール、スリランカを旅行し終え、世界一周の旅に出かけている最中だったのだから驚きです。

その前年(1979年)にはネパールでの服の製作が始まり、1980年には「ヌーディストピーチ」なるブランドを立ち上げ、ネパールを拠点に本格的な服の製作と雑貨の販売に着手していたのです。まだエスニックという言葉さえなかった時代にです。

今まで知らなかった世界が僕の目の前にありました。紅茶、インド及びネパールの雑貨等、レゲエ音楽、それに社長の好きなクラシック音楽。今まで僕が手を付けたことのない世界。そこは僕にとっての未知の世界、未開のジャングルだったのです。こういう状況になると僕は燃えるのです(笑)。
そのあとは、興味が無くなるまで道なき道を突き進むのが僕のやり方です。(何年か前の「焼酎ブーム」覚えていますか?あれ以後、お酒自体それほど飲んでいません。そういえば「ケーキブーム」もありましたね。)

それはさておき。

1977年に発生したイギリスのパンクファッションの流行は徐々に世界に浸透し、1980年代初頭の日本に上陸。
当時の「アジアを見直そう(ファッションから雑貨やインテリア、食べ物まで)」というエスニックブームと合体して、日本全国に、特に大阪に猛威をふるいました。
1980年に始まった「ヌーディスト・ピーチ」は、お金持ちの道楽的な東洋趣味の服屋として出発していたので、いまいち波に乗り切れていなかったのですが、カジュアルな要素を取り入れ、リーズナブルな金額にした途端、あっという間に波に乗ってしまったのです。若い人は我先に「ヌーディストピーチ」で売ってるエスニックファッションに身を包み、こぞってカンテに通ったのでした。

僕は当時、カンテの隣にあった「ヌーディスト・ピーチ」の中津店(兼倉庫)で働いていて、倉庫の管理と仕分けを担当していたのですが、「君もネパールに行って服の製作現場を見ておいた方がいい。」とか言われ、僕もその気になって、ついに1986年3月、井上さんと(スリランカへ一緒に行った池上君を連れて)ネパールへと旅立ったのでした。

そして、仕事の合間を縫ってやって来たここ「ナガルコット」は、ヒマラヤを見るには絶好の場所として観光客には超有名な場所です。(その時は知らなかったけど)
カトマンズから車で1時間ほど行ったところに古都パタンがあり、そこからこのナガルコットの丘まで段々畑がずっと続いていて圧巻でした。だから、その時の僕は絶景のヒマラヤを撮影するのを忘れ、この棚田に心を奪われていたようです。ところで、全体的に黄色いのは朝日が当たっているからですね。

さて、ネパールで一番思い出深いのはここではなく、仕事で泊まっていたペンション・バサナでの朝です。
朝早く起きて、まだ誰もいない広い食堂へ行き、コーヒーや紅茶を頼み、タバコを一服しながら聴くラジオは異国情緒満点でした。





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