[ 神原通信 アーカイブ ]Page 36

 

2023年5月23日(火

<旅で人生が変わることもある>

44年前、国内旅行もしなかった僕でしたが、ある日海外の一人旅がしたくなった。

会社員勤めが3年目にさしかかった頃でした。社会人1年目は印刷会社の新人営業マン。社会の約束事からは遠く離れて自由に暮らせていた学生の身分は終わりを告げ、右も左も分からない会社員という世界に投げ出されたのです。

1年働いた時点でもう限界が来て辞めようと思っていたら、先輩に説得されてさらに1年働く事になったけど、やっぱりダメだとわかり、そんな時、友達から聞いたアメリカ旅行の話。
僕も行ってみたくなり、じゃあ、1年かけてお金を貯めたら会社を辞めてアメリカへ行こうと決心したのでした。

友達が行ったアメリカ旅行は一応ツアーなんだけど、かなり自由度の高いツアーだったようで、それが僕を刺激しました。
このツアーは毎年開催されていたので、翌々年のツアーに讃歌することにしました。
募集要項はこんな感じでした。

1)旅行期間は一か月、最初の10日間はサンフランシスコ近郊のバークレー、次の10日間はニューヨークかフリー、次の10日間はロサンゼルス。
2)サンフランシスコとロサンゼルスの宿泊は大学のドミトリーなので、旅費と宿泊費で30万円を前払い。
3)ツアー人数は20人、現地では各自自由行動。
4)ニューヨークはオプションなので、別途費用がかかる。

なかなかいい感じだと思いませんか?一人旅だけど、何かの時に相談出来る人がいるというのは心強い。早速、半年前に前金5万円で申込んでおきました。残りの25万円は旅行前に払えばいいし。アメリカに持って行くお金は20万円。これで10日間の宿泊と食事代とお土産を賄うので、ニューヨーク行きは諦めて、近場で済ませる事にしましたが、それでも厳しいと言えば厳しいけど、まあいいか。

そして、半年がやって来て、伊丹空港の待ち合わせ場所に。

つづく。



2023年5月22日(月

<「バス停留所」>

管理員の仕事は、朝の掃除や散水がひと段落すると自由な時間ができるので、その時間を利用して過去の思い出を整理しています。

今回は「アメリカ旅行のグレイハウンド編」

1980年7月26日〜8月25日の一ヶ月間の行程がこちら。

7月26日〜8月4日 カリフォルニア バークレー大学の学生寮に宿泊
8月5日〜8月8日 サンフランシスコ〜サンタバーバラのモーテルで3泊
8月9日〜8月12日 ハリウッド近くの安宿で3泊
8月13日〜8月22日 ロサンゼルスを起点に名所めぐり
8月23日〜25日 ロサンゼルスからホノルルへ。1泊して大阪へ

アメリカ旅行が決まってから、色々計画を立てたうちのひとつが、アメリカ映画によく出て来る「グレイハウンドバスに乗る」ことでした。日本でいう高速バスのようなもので一人旅の気分が満喫したいと思い、前日にライ・クーダーの「流れ者の物語」のカセットテープを買って、持って行ったウォークマンで音楽を聴きながら車窓からの風景を楽しみました。

ただ、自分の乗ったバスの写真を撮るのを忘れたので、ここではネットで調べて、当時のバスに一番近い画像(ちょっと古いかな?)を見つけました。

グレイハウンド

ま、こんな感じですね。バスは混んでなかったので、後ろの窓側の席に座り、3時間ぐらいだけど「ロンサム・カウボーイ」の気分でした。シルバーのボディが気に入ってます。

マリリン・モンローが主演をした「バス停留所」という映画を持っていて、それを写してみたのがこれです。

バス亭

バス停

バス停

このバスはシルバーじゃないけど、まるっこくていい感じ。

 

 

2023年5月21日(日

<チャイのワークショップ in Bread Room>

昨日、堺の鳳にあるパン教室「ブレッドルーム」さんへ、1年ぶりのワークショップに出かけました。僕の家から電車を乗り継いで約1時間半。

鳳駅から歩いて10分ほどのところに、自宅兼パン教室の作業場があります。もう10回以上やっていて、ここに来れば道具はほとんど揃っているので、僕はかなり身軽で、持って行くのはチャイグラスと販売用の茶袋ぐらい。最初は、でっかい旅行カバンにカセットコンロやホーロー鍋を詰め込んで、かなり重労働でしたが、2回目からは、コンロも鍋も買ってくれて、ほんと助かっています。

今日は、3回のレッスンで、各回90〜100分程度、休憩が30分、10時から準備を始めて17時に片付けが終わるまで、約7時間はずっとしゃべりっぱなしですね。最近、無口な管理員の仕事ばかりなので、楽しい時間ではありました。

参加者20人の半分はこのパン教室の生徒さんで、3人は元カンテ・ガールズ、その他初めての方でしたが、和やかな時間を過ごす事ができました。

パンやお菓子のお土産を頂き、「また来年、よろしくお願いします。」と挨拶をして帰る僕でした。

 

 

2023年5月20日(土

<YouTube Music>

YouTubeでApple music並みの音楽が聴けるサービスがあったのを知らなかった。
それがなんと無料。

「YouTube Music は基本的に無料で利用できますが、YouTube Music Premium という有料プランも用意されています。 大きな違いとして挙げられるのは、広告なしで音楽を聴けるという点です。」

そうなんだ。では1曲、ベンチャーズのカッコいい曲をどうぞ。

ベンチャーズ

『Night in F Miner / The Ventures』


2023年5月19日(金

<缶コーヒーの原点>

といえば、これでしょう。

UCC

「値上げの昨今、100円玉1枚で買える物はなんだろう?そうだ、近くに100円の自動販売機があったな。」と思い、行ってみたらこれがあった。
懐かしさもあり、5年ぶりぐらいかな、久しぶりに買ってみた。
「う〜ん、美味しい。変ってないなぁ。」

1969年は、僕が14歳、中学3年生。この頃はまだ母親と万屋(よろずや)へ行ってお菓子などを買ってもらっていたから、その時に買って飲んだのかもしれないけど、意識して飲むようになったのは、下宿生活が始まった1973年頃かな。

普段は大学生協のスーパーで、三角テトラパックのコーヒー牛乳をよく飲んでいたけど、この缶は風呂屋帰りによく飲んでましたね。
他にも缶コーヒーを飲んだけど、やっぱりこれに落ち着く。
喫茶店で飲むコーヒーとは、次元が違う。
あっちは苦みを楽しむ飲み物で、こっちはお風呂屋さんの瓶入りの苦みのないコーヒー牛乳の延長だ。ふと頭をよぎる物が・・・。

「僕のチャイの味の基本は、ここから来ているのかも・・。」
なぜ、コーヒー牛乳は缶にできるのに、紅茶牛乳(チャイ)は缶に出来ないんだろう。
でも、できなかったから現在の僕がいるのかも。
もし手軽に美味しいチャイが飲めるんだったら、僕の存在理由は無くなるもんね。

 

2023年5月18日(木

<貸本屋>

太平洋戦争敗戦後の日本は貧乏だった。戦中から物資不足は続いていたが、それでも雑誌の復刊が相次いだ。そんな中、少年(少女)のための雑誌も現れたが、親が子供にそんな雑誌を買い与える余裕もなく、それではと、昭和30年前後に「貸本屋」という商売が全国にあふれた。
1冊1日10円前後で、単行本のまんがや雑誌が借りられるのだ。
僕が物心ついて、貸本屋で漫画を借りるようになったのは10歳ぐらいからだろうか。

家から歩いて5分ほどのところに貸本屋があった。入口の引き戸を開けて左側と正面に単行本(まんが)用の本棚があって、右にはまんが雑誌のコーナーとおばさんが座っていた。

学校から帰るとランドセルを放り投げ、そのまま母に10円もらって貸本屋に走る。まず、新刊の月刊まんが雑誌があるか調べ、なければ本棚で単行本を探す。水木しげる、さいとうたかお、手塚治虫。今でも覚えているのは、白土三平の忍者もので、なぜだか女性の裸がよく描かれていたので、何回もそのページを探して見ていました。ドキドキしながら。

しかし、自分の小遣いでまんが雑誌が買えるようになると、当然ながら貸本屋は減少していきました。近所の1軒しかなかった貸本屋は1970年頃まで続いて、知らないうちに消えていました。

高校三年生の頃(1972年頃)、「今治模型社」の前にあった貸本屋が「閉店セール」をやっているのを見つけて「なんかいいのがないかな?」と探したけど、知るのが遅く、買えたのはこんなものぐらいでした。

少年 少年 少年

単行本はビニールのカバーで、雑誌はだいたい紙のカバー。ここのお店は丁寧ですね。付録のまんがを4冊まとめて凧糸で綴じています。「ふしぎな少年」はNHKで実写版になりました。当時の雑誌の付録は多いときで8個ぐらいあって、右側のお知らせのような紙製の「空気銃」とかが入っていて、そういうのも貸本屋でバラして売ってたりもしましたね。

【少年クラブ】

少年倶楽部は、1914年(大正3年)に大日本雄弁会(現・講談社)が創刊し、敗戦後の1946年に少年クラブと改名して1962年(昭和37年)まで、611冊刊行された月刊少年雑誌である。

(終戦直後の)1945年10月号では、表紙のみながら多色刷りによる発行を再開。翌年の1946年4月、誌名を『少年クラブ』と変え、戦争迎合記事を書かされた責任を取る形で編集部員が交替し、56ページの薄さから再出発して、1953年には346ページにまで復活した。
高垣眸・佐々木邦・大佛次郎・南洋一郎・江戸川乱歩らが引き続き書き、棟田博・北條誠 ・富沢有為男・山川惣治・手塚治虫・馬場のぼるらが登場したが、戦前の看板の『熱血痛快』長編はもう迎えられなかった。
1949年頃からプロ野球、1955年頃からプロレス、1956年頃から漫画と、誌面が世相を追って世を挙げた漫画ブームに飲み込まれるように、講談社の週刊少年マガジンと合併する体裁で、1962年12月に49年の歴史を閉じた。

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1962年と言えば僕は小学2年だから、「少年クラブ」は僕が自分で雑誌を買うようになる前に廃刊になっている。なので、10年ぐらいは店内にあったことになる。
講談社といえば、僕には月刊「ぼくら」と週刊「少年マガジン」の印象が強い。週刊誌が現れた頃には、まんが本は自分で買っていましたね。
しかし、高校受験が始まる頃にはまんがから遠く離れてしまった。

「神原マガジン」の前身は「カンテ・マガジン」だけど、その名前の由来は「少年マガジン」から来ています。自分で雑誌が作りたかったのです。

 

 

2023年5月17日(水

<ブライアン・ウィルソン>

今日、観たかった映画をAmazonプライムで観ました。
タイトルは「ブライアン・ウィルソン / 約束の旅路」

ブライアン

2019年の彼へのインタビューを柱に、過去を振り返りつつ現在の様子を伝えてくれるそんな映画でした。

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僕が彼に最初に興味を持ったのは、19歳(1973年)の頃。大学に入り、下宿で一人暮らしを始めるとステレオ装置を買ってFMラジオを聴き出しました。色んな曲を聴くうちに、いい曲が流れていればテープに録音して何回も聴くという当時流行りの「エアチェック」をするようになりました。
カセットテープが増えて行くのは楽しい物です。
その中に「オールディーズ」というタイトルのテープがあって、ポール・アンカやデイブ・クラーク・ファイブとともにザ・ビーチ・ボーイズの曲もありました。彼らの曲で好きなのは「サーフィンU.S.A」「ヘルプ・ミー・ロンダ」「スループ・ジョン・B」「ファン・ファン・ファン」など。1960年代のヒット曲です。彼らは、もう既に過去の人たちだったのです。

そんな彼らの事をもっと知りたいと思い、雑誌を読み漁るうちに、バンドのリーダー「ブライアン・ウィルソン」に興味を持つようになります。どれも、ブライアンが作った曲ばかりでしたから。

しかし、「1966年のアルバム『ペット・サウンズ』の売上は芳しくなく、10位に留まった」ことを知ります。「10位で芳しくない?」ってどういうことだろう?「1位を取れるグループが10位までしか取れなかった」その意味を知りたくて、ポール・ウィリアムズ著の「アウトロー・ブルース」を読みました。
この本の著者ポールは、この本でブライアンがどれほど「すごい人間」なのかを力説していて、そんなにすごい人なら今までの曲を聴く価値はありそうだと思い、ベストアルバム「エンドレス・サマー」を買いました。僕の好きな曲ばかりだったので、この中の数曲を、僕の8ミリ映画のBGMに使ったほどです。

でも、このアルバムに納められた曲と、その後に買った「ペット・サウンズ」の曲は全く違っていました。あまりの違いに、「このアルバムのどこがすごいんだろう?」と全く理解不能でした。普通ならそこで聴くのを止めるのですが、あまりの不思議さに何回か聴くうち、ある日突然、僕の心に入り込んで来たのでした。「これはなんだろう?耳について離れない。」

それからです。「ペット・サウンズ」以前と「ペット・サウンズ」以後のアルバムを聴き漁りました。その後、彼らの伝記小説やブライアン・ウィルソンの自伝を読むに至り、ザ・ビーチ・ボーイズは世界で一番好きな(というよりは一番興味深い)バンドになりました。いい曲もあり、悪い曲も当然ありますが、どの曲にも愛着があります。どのアルバムのどこが好きでどこが嫌いなのかも力説できるようになりました。

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今回のドキュメンタリー映画は、そういうことを全部含めて観ると、とても素晴らしい映画に見えます。他のアーティストにインタビューをして、皆が一様にブライアンを賛美します。「うん、うん。そうだ、そうだ」とうなづく僕。みんなの言葉を一語一句覚えたい。なぜなら、僕がもし誰かに、ブライアンのことについてインタビューを求められたら、その言葉を使うためです。(笑)

年老いた現在のブライアンがとても愛おしく思えます。若い頃から天才と呼ばれ、その重圧に負けた時もあり、そこから這い上がってまた彼は天才と呼ばれ続けているのです。そんな人を他には知りません。そして、彼の弟二人はもうすでに他界していますが、そのふたりに対しての深い愛情も感じます。

映画の最後で、こんな逸話が披露されます。

「彼は昔、こんな祈りをした。(ビートルズの)『ラバー・ソウル』を超えられますようにって。(笑)
祈りはかなった。神は存在するね。(笑)」

 

 

 

2023年5月16日(火

<ボロット>

子供は「想像を掻き立てるもの」が好きだ。「UFO」「恐竜」「怪奇現象」そして「ロボット」。
僕が最初に欲しがったロボットはこれです。

ビッグサンダー

今井科学の「ビッグサンダー」

母に連れられて百貨店のおもちゃコーナーへ行った時の事。僕の背丈より高い棚の一番上に、このビッグサンダーの箱が飾ってあった。
下から見上げたこの箱には、小松崎茂の絵が描かれていて、その迫力に度肝を抜かれました。
頭からロケットが飛び出し、手からは弾丸が打たれ、僕の頭の中ではこのロボットが動き回っていたのです。
しかし、定価は1,500円。当時の僕の小遣いでは隣の「99艦爆」の300円が精一杯。
家の事情を子供ながらに慮り、母にはねだる事ができず、
「欲しいおもちゃある?」
「これ。」
と、安物のゼンマイ式のブリキのロボットを買って帰ったことを思い出します。

 

そんな苦い経験をした僕が、後にワールドフォトプレスから刊行された「ロボット&スペーストイ コレクション」と題されたコレクター本(2,667円)を平成12年に買ってしまいました。

ロボット

内容はブリキのおもちゃが大半だし、どれもこれも高値のものばかりで、ちょっと僕の趣味ではないんだけど、ところどころ面白い記事があって、今でも時々パラパラとめくっています。

その中の1点がこれ。

ぼろっと

少年マガジンに連載されていた「丸出だめ夫」に登場する「ボロット」というロボット。言葉がしゃべられないので、でっかい看板に文字を書いてコミュニケーションをとるという非常に親しみのわくロボットでした。
主人公の少年がボケをかますと、賢いボロットがつっこむというコメディでした。

そのボロットを電気スタンドにしたのがこの写真のもので、「お腹のスイッチをひねると電源が入り、頭のつまみで目の色を変えることができる」と書かれています。
ま、これは毎週抽選で当たるということでしたが、くじ運の悪い僕なんかには絶対当たらないと思い応募もしませんでしたが、今見るとなんだか「貧乏くさく」て欲しいなぁ、なんて思う今日この頃です。

 

 

 

2023年5月15日(月

<ただ一度のもの>

コマーシャルで感動するって素晴らしい。

ただ一度



2023年5月14日(日

<怪獣のデザイン>

僕は、「ウルトラQ」「ウルトラマン」「ウルトラセブン」に出て来る怪獣や怪人が好きだった。その怪獣達を造ったのは、前に紹介した高山良策という人だけど、それをデザインした人のことは大人になるまでよく知らず、大人になってからいろんな雑誌で読んで、それが「成田亨」という人だと知った。Wikipediaに、来歴があるので、ここで(はしょって)紹介してみます。

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【成田亨】1929年〜 2002年

神戸市生まれで、翌年より父方の故郷である青森市にて育つ。
生後8ヶ月の時、青森県の自宅で囲炉裏の炭をつかんで左手に火傷を負い、数度の手術でも治らなかった。1936年4月、青森市立尋常小学校に入学。8歳の時に尼崎市へ移り、14歳までの6年間を尼崎市で過ごす。小学校では言葉の違いと左手の火傷のことでいじめられ、右手だけで描ける絵が救いとなり、将来は画家になることを決意する。

印刷工として働いて資金を貯め、1950年には武蔵野美術大学に入学する。
1954年、美術学校卒業後には友人に誘われ、怪獣映画『ゴジラ』に美術スタッフのアルバイトとして参加する。石膏グループの一員として、怪獣ゴジラに壊される建物のミニチュアを制作した。以後、彫刻家として活動する傍ら、美術スタッフとして各映画会社の特撮作品に携わる。
1956年、大学院を修了し、映画監督のもとに弟子入り。
1965年春、円谷英二の誘いで円谷特技プロダクションの契約社員となり、特撮テレビ映画『ウルトラQ』(1966年)の第2クールから美術監督を務める。続く『ウルトラマン』(1966年)、『ウルトラセブン』(1967年)、『マイティジャック』(1968年)でも、怪獣やレギュラーメカのデザインを手がけた。
1968年、円谷プロを退社。『ウルトラセブン』、『マイティジャック』の美術監督を中途降板した後、大阪万博の「太陽の塔」内部に設置された「生命の樹」の施工のプロデュース、映画の美術監督などを経る。
2002年2月26日、多発性脳梗塞により、死去。72歳没。

<怪獣のデザイン>

成田

成田はコスモス(秩序)の象徴としてのウルトラマンに対し、怪獣はカオス(混沌)の象徴という理念でデザインした。あらゆる生物や無生物からヒントを得ながらも意外性を求め、自由な変形や組み合わせにより独創的な形の創造を目指した。演出家や監督は、ウルトラマンに対峙する怪獣は恐ろしい外見をした悪役らしいインパクトのある物にしようと考えていたが、成田は内臓が露出していたり、顔が崩れていたりする嫌悪感を示すような怪獣は子供番組に適さないと考えた。そこでウルトラ怪獣のデザインに当たり、

・怪獣は妖怪ではない。手足や首が増えたような妖怪的な怪獣は作らない。
・地球上の動物をそのまま大きくしただけの怪獣は作らない。
・身体が破壊されたような気味の悪い怪獣は作らない。内臓が剥き出しであったり、脳がはみ出たり、血をダラダラ流さない。

という三つの規範を定めた。
また、侵略宇宙人のデザインについて、「地球人にとっては悪でも、彼の星では勇者であり正義なのだから、『不思議な格好よさ』がなければいけない」とも述べている。

バルタン星人は今でも人気怪獣であり、成田の代表作と取られがちだが、成田自身は「セミ人間に角と大きな鋏をつけてくれという無意味な注文が嫌だった」とその造形を否定している。逆にケムール人を、自身の芸術的理想に照らして会心の宇宙人として挙げている。

成田は奇怪で複雑なデザインを嫌った。デザイナーが表現の初期衝動を大事にせず、物のかたちの根底や問題の根底を問わず、既存の怪獣デザインの枠内だけで怪獣のデザインを考える安易で狭い姿勢をとり続ける限り、既存の怪獣の単なる組み合わせや複雑化などデザインの堕落が進むと批判した。「新しいデザインは必ず単純な形をしている。人間は考えることができなくなると、ものを複雑にして堕落してゆく」と述べている。

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「怪獣のあけぼの(DVD)」での高山良策が穏やかな良い人そうなのに対して、このWikipediaの成田亨はすごく気難しい感じがします。本当は優しい人だったんじゃないかな、とも思いますが、「彫刻家」としての自分に妥協しなかったので、業界人には馴染まなかったのかも、と色々と資料を読むうちに思うようになりました。
自らの信条(ワイフワーク)と(生活のための)仕事との狭間で悩むのはいつの時代も変わらないように思います。
怪獣のデザインが「彫刻家:成田亨」によって生み出され、実際の着ぐるみが「画家:高山良策」によって完成したことの不思議さを思わずにはいられません。


2023年5月13日(土

<海底人8823>

8823

僕が、生まれてはじめて特撮に接したのが、このテレビ番組「海底人8823」でした。
放映されていたのは1960年だから、僕が6歳の頃。
どんな内容だったのかはさすがに覚えていないんだけど、海から飛び出して来る主人公の「はやぶさ」には、毎回驚いていた記憶があります。これがフィルムの逆回転だと分かったのは小学生の高学年になってからだと思います。

Wikipediaには、この番組の面白い解説が載っています。

「海底人8823は遠い昔に彗星ツイフォンの接近により海底に没したエルデ大陸からやってきたという。本名はエルデ10008823。ただし長い名前なので周りからは簡略してはやぶさと呼ばれる。」

「短時間だけ相手の脳神経に激痛を与えて気絶させる特殊な光線銃が武器。肉眼では確認不可能であり、発射中は特殊な音が鳴る。自らと同じ姿をし8823の2などの名前を持つ機械と呼ばれる分身に偵察を行わせ、自らも背広姿で行動する。任務が終わると波しぶきを残し海底に帰って行く。」

「両親を亡くし及川博士の養子として箱根で暮らしていた中学生・勇は、謎の流星群が降りしきる中、芦ノ湖畔で斜面の赤土でベルトが外れたまま倒れていた奇妙な服装の男を助けた。海底人・エルデ10008823と名乗るその男はお礼に勇に30000サイクルの音波が出る笛を与えた。勇に危機が迫り誰にも聞こえない笛の音が2回鳴ると8823が現れ、及川博士が研究中の数式「X132」を狙うブラックスター団の一味と戦うのだった。」

ウルトラマンとかマグマ大使とかの先駆的な内容ですね。

 

2023年5月12日(金

<ベンチャーズ・フォーエバー>

フォーエバー

なぜ、僕はベンチャーズを聴き続けるのか?Wikipediaを交えながら考察していきます。

1)「ベンチャーズが日本で人気が出たのは2回目の日本公演(1965年)からであった。
彼らは専用ギターである、モズライトのギターを真空管アンプにプラグ・インする事によって生み出されるラウドかつ強烈なサウンドで、たちまち日本の若者たちをとりこにし、日本に於いて一大エレキ・ブームを巻き起こした。」

翌年の1966年、友達の宇高くんの誕生日会でのこと。同級生約10人が、宇高宅に招かれ、家具調のステレオ装置で、ベンチャーズの4曲入りのEP盤(テケテケサウンド)をかけて、みんなで当時流行っていたゴーゴーダンス(モンキーダンス)を踊ったことを鮮明に覚えています。その時の「刷り込み」は「1960年代=ベンチャーズの音」として記憶されることになった。

2)「1966年には、加山雄三の「君といつまでも」のカバーを日本で発表してヒットしたことをきっかけに、そして1968年にノーキー・エドワーズが一度脱退し、後任ギタリストにジェリー・マギーの加入後は1960年代後半から1970年代前半にかけて日本を意識した曲を作るようになり、日本の作詞家が歌詞を付けて発表されたのがきっかけで、歌謡曲の作曲家としても注目されるようになる。

越路吹雪のために書いた銀座の夜景をイメージした「GINZA LIGHTS」が「二人の銀座」(和泉雅子&山内賢)としてリリースされたのを皮切りに、「北国の青い空」(奥村チヨ)、ジェリーが携わった「京都の恋」「京都慕情」「長崎慕情」(渚ゆう子)、「雨の御堂筋」(欧陽菲菲)などの歌謡曲を送り出し、それらはベンチャーズ歌謡と呼ばれた。「アメリカ人にこんな日本的な曲を書けるのか」と当時の日本の音楽評論家たちを唸らせた。特に「京都の恋」は、(1970年)第12回日本レコード大賞企画賞を受賞している。」

昭和は、歌謡曲全盛の時代。子供から大人まで聴いている音楽は一緒という時代だから、ベンチャーズは、僕たち子供の心の中にまで浸透していったのでした。

3)1980年代、山下達郎によって、ベンチャーズの(1960〜1967年までの)決定版「ベンチャーズ・フォーエバー」(2枚組24曲入り)が発売され、朝から晩までベンチャーズを聴いていたことがあります。

4)1977年、大瀧詠一によるインストゥルメンタルアルバム「多羅尾判内楽團」が出たのをきっかけに、1960年代のインスト曲を聴き漁る日々が続き、結局はその大元になるベンチャーズ熱が再燃。

5)以後、周期的にベンチャーズを聴くことが習慣化すること40年。2021年にYouTubeにて「大エド日記」のエド山口によるベンチャーズ讃歌に感化され、さらに深くベンチャーズを知るに至る。

6)今年になって、2000年発表の「AcusticRock」と出会うこととApple Musicで彼らの初期から現在までアルバムをほぼ聴く事が出来るに至って、今まで興味すら抱かなかったメンバーたちの歴史やライブ演奏まで聴くようになったのでした。

 

 

2023年5月11日(木

<少年は夢を見る>

ーきみを幻想の世界にさそうスクリーン大魔術

1968年、僕はもう中学生。でも、まだ学校の許可なくひとりでは映画館へ行く事はできなかった。そういう時代の少年は「夢を見るしかなかった」のです。
少年マガジンは、そんな僕に素敵な贈り物をしてくれました。

特撮

これはグラビア20ページに及ぶ「大特撮」特集で、ここで紹介されている映画達は僕を夢の世界に誘うのでした。

「2001年宇宙の旅」1968年・・公開されたのが1968年5月なので、この記事はそれ以降のものということになりますね。文中には「シネラマ公開中」となっています。ディスカバリー号の巨大な内部のセットが話題になりました。

「ミクロの決死圏」1966年・・「人体内部のセットを心臓・肺臓・動脈・毛細血管・脳・内耳などにわけて作った」そうだ。これだけは映画館で見られた。

「メリー・ポピンズ」1965年・・当時「世界一のアニメ合成」だった。これは文部省推薦だったかもしれないけど、観たのは大人になってから。

「天地創造」1966年・・テレビで放映されたことがあるが、都合で観られなかった。AppleTVで予告編を観たら、4Kなのでクリアですね。そろそろ加入してレンタルしようかな。ただし、現段階では、オリジナル作品のみ無料で、映画はレンタル(¥407)しかない。

「サンダーバード:劇場版」1966年・・これは、後年DVDを買いました。テレビ放映分もDVD-BOXを持ってます。

「恐竜100万年」1966年・・当時はすごく観たかったけど、話がちゃちっぽいので未見。

あと、中のページには「ベン・ハー」の巨大シーンや「大魔神」の撮影風景とか、特撮の裏側まで詳細に図解したページがあり、もうこれはスクラップするしかない!と切り抜き、今でも大切に持ってます。

さて、このページを企画・構成したのが「大伴昌司」。彼が当時の少年少女に及ぼした影響は計り知れず、今でも語りぐさとなっています。
Wikipediaには彼の詳細な人生が記されているので、一読あれ。

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【大伴昌司】1936年 - 1973年

日本の編集者、SF研究家、映画評論家、翻訳家。「怪獣博士」と呼ばれた。

父は国際ジャーナリストで、 1938年から父の任地メキシコで育ち、アステカのピラミッドや石像から大きな影響を受ける。このときの体験が、「異端なもの」を好む性格の元となり、のちの怪獣ブームの生みの親となる素地を築いたといわれている。

大学卒業後、1963年から『SFマガジン』にインタビュー記事「SFを創る人々」を連載開始。同誌では1965年からは連載コラム「トータル・スコープ」を連載。1966年10月号の同コラムで日本で初めて『スター・トレック』を紹介した。
さらに、『ウルトラQ』がまだ企画時の『UNBALANCE』という名称だった時期から企画者として円谷特技プロダクションに関わりはじめ、怪獣や宇宙人のプロフィールを詳細に設定。ウルトラマンが地上で戦える時間を3分間、宇宙恐竜ゼットンが放つ「一兆度の火球」などは大伴が考案して設定して後に公式設定となった。怪獣や宇宙人のプロフィールに前村教綱、梶田達二、南村喬之らのリアルなイラストを添えて「怪獣図解」として雑誌に発表し、さらには単行本『怪獣図鑑』として刊行。「怪獣博士」の異名をとり、ワイドショーにも出演。当時空前の「怪獣ブーム」を盛りたてた。

しかし、怪獣図解は子供たちの夢をなくすと考える円谷一と1967年の『怪獣解剖図鑑』をめぐって怪獣観の相違で怒りを買い、円谷特技プロへの出入りを禁止となっている。

1964年の『ぼくら』10月号から少年誌の仕事を始め、『ボーイズライフ』『少年マガジン』『少年サンデー』『少年キング』『少年画報』のグラビアページの構成と編集を行う。

特に1966年から1972年までの『少年マガジン』の図解グラビアの企画構成者として一世を風靡。高度経済成長期における未来ブームの波に乗り、科学技術をはじめとして、森羅万象の物事を的確に視覚化する特異な才能で高く評価された。表紙に横尾忠則を起用するなど、斬新な発想力で同誌の売上を飛躍的に伸ばした。その記事構成の見事さから、当時は撮影中の取材を禁止していた黒澤明から無条件で取材許可を得ていた。

心臓発作を起して36歳で急死。墓碑には「ウルトラの星へ旅立った」と刻まれている。

 

 

2023年5月10日(水

<『霧の彼方へ』>

ベンチャーズの「Acoustic Rock」につられて色々と昔の曲を聴き漁り、今は「エレキ・インスト」がマイブームになっています。そんな折り、AppleMusicにやっとというかついに大瀧詠一の多羅尾伴内楽團のVol.1とVol.2が出現。改めてこのアルバムに聴き入っています。

で、やっぱり名曲なのがVol.1の1曲目「霧の彼方へ」。
この曲の原曲は、頭脳明晰で柔術の使い手の日本人探偵「Mr.MOTO」という映画にインスパイアされて、ベルエアーズというグループが曲を作りヒットさせたものなんですが、これを、チャレンジャーズというグループがカバーしたものを、さらに大瀧詠一がエレキギターをスティールギターに変えて、尚かつテンポを遅くしてカバーし、曲名も新たに「霧の彼方へ」としたものですね。
これだけでもややこしいのに、チャレンジャーズの「ミスターモト」には2種類あって、大瀧詠一がカバーに利用したのは、カスタネットが使われているバージョン。これを聴いてフィル・スペクターを連想したんでしょうね。しっかりとカスタネットを強調した音作りになっています。
それと、この曲の始まり方と終わり方には、なにかしら日本的な情緒が感じられます。

切りの彼方へ

シングルカットされた時のジャケット

僕は持ってないですけど。

ただし、大瀧詠一の「霧の彼方へ」はYouTubeにはないので、ベンチャーズ盤とチャレンジャーズ盤をお楽しみください。

Mr.MOTO / ザ・ベンチャーズ(Going To The Ventures Dance Party!より)

CHALLENGER/Mr Moto (1965 PRINCESS

余談ですが、「岩手ベンチャーズ/さらばシベリア鉄道〜Mr.MOTO」というのがあったので、こちらもご覧下さい。曲調が似ているのが分かりますね。

さて、「多羅尾伴内楽團 Vol.1」からもう1曲。

<『さすらいのギター』>

この曲もかなり複雑な解説が必要になるんですが、もともとは1906年に作曲されたロシアのワルツで、日本では『満洲の丘に立ちて』という曲名が定着しているそうです。

1963年に、フィンランド出身のギター・インストゥルメンタル・バンド:『ザ・サウンズ』がこの曲をロックン・ロール調に編曲し、"Mandschurian Beat " としてリリース。フィンランド本国はもとより北欧諸国で大ヒットとなり、そして日本では「さすらいのギター」の邦題が付けられ人気を得たのでした。

その後、1971年に、ベンチャーズが「日本国内向け」にシングル盤を発表しヒットさせ、後に寺内タケシや小山ルミも同曲をカバーする程となりました。

ベンチャーズ盤

小山ルミ盤

大瀧詠一盤

今日は、ここで終わりにしようと思ったんですが、変な曲を発見したので、それを最後に紹介することにします。

<『サーフィン伝説』>

植木等が、サーフィンサウンドをバックにゆるいテンポで朗々と歌っているのですが、これはどう考えても大瀧詠一のプロデュースにしか聴こえない。調べてみたら、やっぱりそうでした。

では、ごゆるりとご鑑賞ください。

「サーフィン伝説」

 

 

2023年5月9日(火

<バイトくん>

バイトくん

僕が大阪に出てきたのは1973年春、大学に入った時でした。

その頃は大学の周辺に学生下宿がたくさんあって、家賃の相場は5,000円前後だったと思います。だけど、僕の入った部屋は、古い木造の長屋で、出来た最初は6畳だったものを、しばらくして3畳間に仕切って貸していたので破格の3,000円でした。ただ、ここの下宿は夕食のまかない付きだったので、最低でも15,000円は払っていたはずです。
家からの仕送りは30,000円でしたから、残りの15,000円を30日で割ると1日500円。これでは、昼食代、交通費、風呂代、他諸々をすべて賄うことはできませんよね。そこで、アルバイトを探すことになります。

さて、「どこで探すんですか?」と先輩に尋ねたら「梅田の扇町公園の西側に学生専用の斡旋所があるから、そこへ行ってみたら?」と教えてくれたのでした。

阪急梅田から歩いて10分ほど。公園の西口に学生が集まる木造の掘立て小屋があり、中に入ると壁に黒板があって、そこに募集要項が書かれてある。職種、屋号、日付、時給、日給、募集人数を見て、応募したい物件を探す。しばらくして、担当者が呼びかける。「○○に応募したい方は、こっちに来て!」
応募者が多いと「はい、じゃんけん!」。じゃんけんぽん、あいこでしょ!ちぇっ、負けた!やったぁ、勝った!とあちこちで声が上がる。負けて帰る時のなんと寂しかったことか。

閑話休題。

この話を書いていたら思い出した。いしいひさいちの文庫本にもアルバイトの事が書いてあったっけ。と思い、探したらあった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「今はシャレたビルになりましたが、そのころは「ガクソー」と呼ばれ、失業学生にアルバイトを斡旋するにふさわしい建物でした。
良さそうな仕事に職を求める学生が群がり、定員をオーバーするとジャンケンで決めます。
目の前の扇町公園へぞろぞろ移動してジャンケンポン!
となるわけですが、中には思いつめた顔の人もいて、勝っちゃって悪い事したな、と思った記憶があります。」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「バイトくん」の作者:いしいひさいちは、関西大学社会学部卒で、僕より3歳年上。
そして僕は、同じく関西大学社会学部卒。つまり、ふたりは先輩と後輩なのだ。だけど、僕が入学した年に彼は卒業していました。
それぐらいしか繋がりはないけど、親近感が湧くのはなぜだろう。

このまんが本が出たのは2009年。

「アルバイトで描いていた漫画が職業となってから、はや30年近くなります。
やっていることはそのころとたいして変わりません。
どうやらこれはプロではなくて、長期アルバイトが事情があって辞められないようなモンのようです。」
この本の冒頭で、いしいひさいち先輩はこうつぶやく。

そして僕はこうつぶやく。
「アルバイトで入れてたチャイが職業となってから、はや43年になります。
やっていることはそのころとたいして変っていません。
どうやらこれはプロではなくて、長期アルバイトが事情があって辞められないようなモンのようです。」と、後輩は思うのであった。

 

 

2023年5月8日(月

<激動の1966年>

1966年は昭和41年。愛媛県今治市生まれの僕は12歳で小学6年生でした。
この年に起こった、僕にとっての重大事件はたくさんありすぎるので年表を作ってみました。

1月2日 ウルトラシリーズ第一弾『ウルトラQ』(TBS系)が放映開始
3月31日 日本の総人口一億人突破
4月1日

日本でメートル法完全施行。尺貫法の公的な使用が禁止される
※どこの家庭もこの頃は「銭湯」が主流で、そこには必ず体重計が置かれていて、毎回入浴後は体重を量っていました。その体重計はkgではなくて、貫で表示されていて、「今日は○貫○匁(もんめ)かぁ」なんて言ってましたね。
それとか、ジャイアント馬場の必殺技「18文キック」は彼の足のサイズからきてるもんね。

6月29日

ビートルズ来日(6月30日から3日間日本武道館で公演)
※日本の片田舎:今治の大人達にとっては、ビートルズのことなんて別世界の話なわけで、でも一部の子供達の間では、首都圏からテレビやラジオの電波によって送られて来る彼らの音楽に熱狂し、特に裕福な家の子供たちは、親にねだって彼らのレコードを買ってもらってたりしてましたね。
父親が音楽の先生をしていたあっちゃんはビートルズのアルバムとか持ってたし、父親が塾の先生をしていた宇高くんの家に遊びに行った時には、ベンチャーズのテケテケサウンドのEP盤や、ローリング・ストーンズ の「黒くぬれ」なんかを聴かせてもらってました。

7月17日 ウルトラシリーズ第2弾『ウルトラマン』が放送開始
9月7日 明星食品が「チャルメラ」を発売
※毎週土曜日のお昼は学校が半ドンなので、関西では(今治でも)ラーメンを食べながら「吉本新喜劇」を観る子供がたくさんいました。
10月1日 NET系、長寿番組『日曜洋画劇場』放送開始。
※映画館でしか観られなかった映画がお茶の間に登場することに。しかし、今治では、UHFアンテナのない僕の家では観ることができず、あと3年が必要でした。でもそれが却ってよかったのかも。映画にのめり込むこともなく勉強できたので、中学時代の成績は上位に入ってました。
10月28日 「週刊プレイボーイ」創刊
※「平凡パンチ」に対抗すべく、集英社が発行した大人の雑誌。ヌードグラビアがあったので、小学生の僕には本屋さんで見たり買ったりする勇気はなかった。後に、古本屋でバックナンバーを探すことになります。
12月17日 「ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘」
※ゴジラ映画はなぜか「文部省推薦映画」だったため、学校で許可されていたので、新作が出たら必ず観に行ってました。ちなみに、同時上映は加山雄三の「若大将シリーズ」か「クレージーキャッツの無責任男シリーズ」の映画。両方とりたててどうっていう映画ではないですが、同年代の人はなぜかこのシリーズに愛着を持っていたりしますね。
続・夕陽のガンマン(監督:セルジオ・レオーネ)
※イタリア制作の西部劇「マカロニ・ウエスタン」が流行るきっかけは、クリント・イーストウッド主演のこのシリーズでした。僕が見たのは3年後、二流映画館ででしたが、感動しました。独特の演出(クローズアップと長い間)が気に入ってました。今観ると、クドいですけど。
  「巨人の星」、『週刊少年マガジン』19号で連載開始
※大リーグボール1〜3号までは見てましたね。時代錯誤で冗談みたいな話なんだけど、当時は「少年マガジン」を毎週買うのが楽しみでした。作画の川崎のぼるは、連載の話が回って来た時、野球のルールを知らなかったので断わったそうですが、「講談社からの熱意に負けて」描いたそうです。
4月10日 「サンダーバード」(NHK)放送開始
※これも「ウルトラシリーズ」同様、僕にとってはインパクトのある作品でした。「特撮」の最先端といっても過言ではないほど。特撮監督のデレク・メディングスは、後に「007」映画にも参加しています。「ウルトラセブン」がこの特撮を真似しましたが、メカのデザインや造形には格段の差がありました。

この中で、当時、特に僕の心を揺さぶったのは、「怪獣」という存在でした。「ウルトラQ」では「ペギラ」と「ガラモン」が有名だけど、「ウルトラマン」には毎週必ず1体は怪獣が登場する。その怪獣達を造ったのが、デザイナーの成田亨と造形の高山良策です。

成田亨氏のデザインした怪獣を人間が中に入れるように、あるいは奏演(操り)したりできるようにするのが高山良策氏の仕事。それも「生きているように」造り上げるのです。

怪獣

(月刊誌「ボーイズライフ」に載った制作現場)

その高山氏の功績を映像化したのが「怪獣のあけぼの」というDVDで、最初に手がけた「大魔神」(これは怪獣ではないけど)から始まって、ウルトラ三部作の怪獣達の紹介をしていくビデオです。彼は「手を抜かない」仕事で有名で、どの怪獣も完成度が高いのが特徴で、怪獣を依頼した人達が完成品を目にすると「命を吹き込まれて帰って来る」と絶賛をするほど。

「ウルトラ三部作」に出て来る怪獣&怪人たちはどれもこれも素晴らしい。それは成田氏のデザインがあったから、というのが分かるビデオではあるんですが、高山氏の造形がなければ僕たちにヒットしなかったというのも分かります。中でも「シーボーズ」という怪獣は、宇宙の墓場に送られるため、ロケットに繋がれて地球を後にするのです。その時の仕草と鳴き声は今でも忘れられません。

高山良策氏は1917年生まれで、1982年没。64歳という若さで亡くなられています。彼は本来画家で、怪獣を作っていた時代でも欠かさず作品を作り続けていたそうですが、亡くなる半年前に自分の作った怪獣の中から7体を選び30cmの大きさで作り直したそうです。その作品もこのビデオに出ていますが、ディテールが素晴らしいフィギュアになっていました。

このDVDの最後に奥さんのコメントがあって、「高山が、今日や先日のように大勢の方が作品を通して(私に)親切にしてくださる心を、高山が残していってくれたんです。人とのつながり、それが財産だと思います。」という言葉に涙する僕です。

(このDVDを探すのはちょっと苦労するかもしれませんが、ツタヤにあるはずなので、問い合わせてみるといいかもしれません。)

追伸:ニコニコ動画で全編出てました。ご覧下さい。

 

2023年5月7日(日

<映画のチラシ>

20歳の頃、映画館へ行ってはチラシを集めていたことがあります。コレクターではないので、50枚ぐらいしか持っていませんが、珍しいのがあるので紹介します。

ザカライア

「通信販売で拳銃を手に入れた青年ザカライアが、ガンマンを志して、友人のマシューと共に旅に出る。やがてザカライアは、より優れたガンマンをめざして一人旅立つが……。」という話らしい。僕は観ていません。
1971年の映画で、僕が大阪に来たのが1973年だから、これは自分で集めたものではなくて、友人の高田くんにもらったものだと思います。当時、チラシの物々交換をしてたからその時にもらったんでしょうね。

さてこの映画、どこのサイトを見ても評価は低いので、たぶん面白くないんだろうな。観たいとも思わないけど、このチラシは好きです。煙草の煙がいいかんじ。

Wikipediaには「 エレクトリック西部劇」としてジャンル分けされていて、
「ジョン・ルービンスタイン、ドン・ジョンソン、パトリツィア・クインが出演した『ウェスタン・ロック ザカライ』は、「最初のエレクトリック西部劇」と呼ばれている。このジャンルはアメリカ西部を舞台にロックバンドを題材にしており、『ウェスタン・ロック ザカライヤ』では1970年代に活動したジェームズ・ギャング、カントリー・ジョー・アンド・ザ・フィッシュなどのロックバンドがクラッカーバンドとして出演し、音楽を提供していた。また、ダグ・カーショウとエルヴィン・ジョーンズがカメオ出演している。 」とあるけど、この映画以外で「エレクトリック西部劇」というのを見た事はない。

 

2023年5月6日(土

<「Acoustic Rock / The Ventures」>

アコースティックロック

今年に入って、AppleMusicにザ・ベンチャーズのアルバムが大量に紹介されるようになり、その中にこの「アコースティック・ロック」というのがあった。なんともひねりのないタイトルだし、エレキのベンチャーズがアコースティックとはどういうことなのか聴いてみたら・・・ギターの音色と演奏の熱量がいつもと違うなあというのが伝わって来た。

1曲目はさほど面白くなかったけど、2曲目がいい!タイトルは「FLINGEL BUNT」。彼らはいつも誰かのコピー(本人たちはコピーとは言わないけど)をするので有名なので、この曲は誰のだろうと調べたら、シャドウズの1964年のヒット曲だった。原題は「RISE & FALL OF FLINGEL BUNT」で、「FLINGEL BUNT」とは、シャドウズが考え出した架空の人物らしい。

The Shadows - The Rise And Fall of Flingel Bunt (1964)

FLINGEL BUNT / The Ventures

何本かのアコースティックギターが重なって、けっこう凝った作りになってる。

3曲目の「MAN OF MYSTERY」も同じくシャドウズの1960年のヒット曲。どちらも当時のミステリー調で、なんだか懐かしいメロディーなのがいいですね。

The Shadows - Man of Mystery (1960)

The Ventures - Man Of Mystery  

5曲目は、「The Way」という曲で、1998年にヒットしたファストボールというバンドの曲。
若い兄ちゃんたちのやってる曲だけど、曲調はかなり古くさい。それを狙ったんだろうけど、ベンチャーズにはピッタリの曲ですね。原曲に忠実に作ってますね。テクニックは上だけど。

Fastball The Way (Official Video) www.fastballtheband.com

The Ventures - The Way

1枚のアルバムから3曲もいいのが見つかったのは久しぶりなので、どういう経緯でこのアルバムができたのか知りたくなってネットで調べたら・・・何も出て来ない。Wikipediaの日本版とアメリカ版を探したけど、その中にもない。なんで?

う〜ん、Amazonのレビューにも、発売は2000年というのは分かったけど、その他の詳しい話が出て来ないので、「しかたない。買うか。」ということで、中古を探してみた。曲はAppleMUSICで聴けるので、解説のブックレットがあれば買う事にしました。結果、ブックレット付きのCD本体が440円、送料が510円、合計950円。ま、いいか。

送られて来たCDの解説を読んで納得。ドン・ウィルソンとボブ・ボーグルのコメントがあって、なぜ、このアルバムが出来たのかが分かるようになっています。それに、これってJapan only なんですね。だからアメリカのWikipediaには載ってなかったんだ。

改めて全曲を聴いてみると、いい曲多いです。ただ、「ザ・ベンチャーズ」というイメージ(エレキサウンド)からは、遠いところにあるので、だから日本だけの発売にしたのかな?とは思います。でも、Amazonのレビューにもあったけど「解説にはアンプを使用してないとありますがとてもそんなふうに感じられない音の厚みです。 」とあって、僕もそう思います。

ちなみに、このアルバムには、スティーリー・ダンやドゥービー・ブラザーズに参加していたジェフ・バクスターがゲストとして参加して、かなり濃い演奏をしています。

 

2023年5月5日(金

<箱絵アートの先駆者:小松崎茂>

高校時代に収集した雑誌の切り抜きの中に、こんなのがあります。

モーター

マブチモーター

絵の作者は小松崎茂。プラモデルの箱絵(BOXアート)の第一人者である。これも箱絵だと思いネットを探してみたけどどこにも情報はなかった。僕の記憶では、潜水艦の胴体にマブチモーターと電池を仕込ませ、スクリューを動かして遊ぶおもちゃ(製品)なんだけど、違うのかなぁ。まあ、それはどうでもいいんだけど、波しぶきとか臨場感があって好きな絵ではありますね。

今日は彼がどういう存在だったかを調べてみることにしました。

【小松崎 茂】

東京出身の画家・イラストレーター。(1915年 - 2001年)
空想科学イラスト・戦記物・プラモデルの箱絵など、挿絵の第一人者として幅広く活躍した。
戦前に続き戦後の復興期にも活躍した人なので、彼の影響を受けた人は多い。
次の文章は、泣かせる話です。

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敗戦後の復興期、日本を占領した連合国軍に群がる子供達の姿を痛々しく思い涙を流したという小松崎は、自分の絵で子供達を励ます事は出来ないかと考えるようになり、作品作りもより精力的に行うようになる。少年誌向けに表紙や挿絵を数多くの雑誌に描き続け、掲載された空想科学イラストは当時の少年達に、未知なるものへの想像力をかき立て人気を博した。

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僕が読んでいた漫画雑誌にも彼の作品は多かった。

サンデー

僕が読んでいた「少年サンデー」の表紙

これも小松崎茂の絵ですね。

少年誌御用達の絵師でもありました。

小松崎の名声が後世も不動のものとなった要因に、プラモデルなどのボックスアート(箱絵・パッケージアートとも言われる)などに使用されるイメージ・イラストを多く手がけたことが挙げられる。主に1960年代から1970年代にかけてプラスチック製の子供向け玩具が主流となり、プラモデルが飛躍的に製造・普及し始めた頃である。プラモデルメーカーとして艦船・戦車を手がけるタミヤ、サンダーバードの今井科学、1/76戦車模型の日東科学、1970年代のロボットアニメのバンダイなど模型業界の各社から彼は依頼を受けた。描かれたイラスト作品は各メーカーの要望に合致し、なおかつさらに上回る魅力と迫力があった。戦前からのイラストレーターとして、第一次プラモデルブームに貢献した第一人者となる。

サンダーバード2

この迫力!この箱絵を見たら絶対欲しくなる!もちろん僕も買いました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

彼の偉業を紹介した本は多数ありますが、僕が持っているのはこんな本。

小松崎

彼の描いた絵も素晴らしいけど、彼の弟子たちの絵もすばらしく、中でも高荷義之と大西将美はタミヤでの彼の仕事を引き継いで、新たな次元へと引き上げたのでした。その話は、後日。

 

 

2023年5月4日(木

<「FAMO」という名の故障戦車運搬車>

僕は「Pinterest」という無料のWEBサービスに加入しています。
これに、自分の興味あるジャンル、例えば「007」とか「宇宙家族ロビンソン」とかを登録しておくと、毎日のようにメールで「僕が興味あるであろう画像のサムネイル」を送って来るという非常にうっとおしくもあるサービスなんですが、時々「おおっ!』という画像を送ってくるので目が離せません。特に今回のような画像は僕の大好物だったりします。

FAMO

これはタミヤの1/35ミリタリーミニチュア・シリーズのプラモデルで、正式名称は「ドイツ18トンハーフトラック戦車運搬車」。戦場で故障した戦車を台車に載せて修理工場まで運ぶという任務の為の車両で、台車を外せば兵員だけでも運搬出来る重量級の牽引車ですね。これ、2000年に15,000円という高額で発売されたようですが、全く知らなかったし、売れたという話も聞いた事がないけど、でも「欲しい!」とは思います。この箱絵を自分のものにするだけでも価値はあります。

僕とタミヤとの出会いは小学生の頃(10歳ぐらい)で、当時流行っていたモーターで動かす戦車を買ったのが初めだと記憶しています。アメリカの「パットン」とかフランスの「ナポレオン」とか。後に、ディスプレー専用の実写に忠実に作られた戦車が出てからは、特にドイツの戦車が格好良くて「パンサー」とか「タイガー」とかが僕の本棚に飾られるようになりました。しかし、戦車の迷彩塗装やジオラマが本流になると不器用な僕は着いて行けず、30歳ぐらいでプラモデル作りから足を洗いました。

ただ、会社員になってお金に余裕が出て来た頃、「プラモデルの大人買い」をした時期があり、その時に買った未組立の戦車が10台ほど、今でもクローゼットにしまい込まれて、毎日その箱を眺めて悦に入っています。

そういう経緯もあって、Pinterestでこの「FAMO」の箱絵を見た時、心を奪われてしまったのでした。

今のネットってすごいですよね。ある程度の知名度があれば何でも情報が手に入る。この「FAMO」も例外ではなく、下記のようなサイトを見つけました。実写の製造過程やプラモデルの改造も見られます。

FAMO(このサイトは英語版なので、日本語に訳してご覧下さい。)

 

2023年5月3日(水

<「マルコポロリ」からの「生存確認テレフォン2」>

確認

日曜日のお昼2時は、関西テレビ「マルコポロリ」の時間と決めています。毎回1テーマで、関東関西を問わず売れていない芸人を集めて、彼らをイジり倒すという番組です。
一度見始めるとクセになり、いつのまにか売れない芸人に親しみを感じるようになるという不思議な番組なので、用事のない日曜日は、ほとんどこの番組を観ています。

MC東野の、売れない芸人への過激なツッコミが、観ているうちに「優しさ」のように感じて来るマジックにはいつも驚かされます。あまり「お笑い番組」を見ない僕でも、この番組を見続けていると、呼ばれた芸人をフォローしたくなってくるから不思議。

さて、先日、YouTubeで東野による「生存確認テレフォン2」というのが見つかり、これがすごく面白いのです。マルコポロリに出て来る芸人がたくさん出て来て、電話で、ネタではなくて普通の会話をするのがすごく新鮮なんです。
これ、リアルタイムな番組で、2020年ぐらいから始まっていたようなんだけど、僕は全く知らず、この「シーズン2」も約2年前のもの。それでも面白い。

コロナのせいで仕事が無くなり「溺れかけている芸人たち」の、現在の状況を電話で東野が確認するだけの音声番組なんだけど、名前と顔が一致しないような芸人がたくさん出て来る。「(僕も含め)リスナーはそういう人達にこそ興味がある」という的確な状況判断の元、制作されている様です。ただし、時間が長い(3時間ぐらいあるのかな?)ので、聞きたい芸人だけ聞いて後は飛ばすというのがYouTubeのいいところですね。

ちなみに、「マルコポロリ」の担当ディレクター:芳仲真雪子さんのインタビューも見つかりましたので、どんな感じでこの番組を制作しているのか紹介しておきます。

「東野幸治が輝く「マルコポロリ」、お約束を拒否した番組作り」
https://www.lmaga.jp/news/2023/03/616604/

 

2023年5月2日(火

<『刑事マディガン』>

今、昔買った古い映画(DVD)を観直しています。その1本目がこれ。

マディガン

映画のワンシーン(本当はカラーだけど、モノクロがよく似合う)

「刑事マディガン」(原題:Madigan)刑事アクション映画

この映画は、僕が大学生の頃、1975年に『土曜映画劇場』(テレ朝)で放送したものを観てずっと印象に残っていて、大人になってから(安かったので)DVDを買いました。

公開:1968年(ユニバーサル映画)
監督:ドン・シーゲル
脚本:ヘンリー・シムーン、エイブラハム・ポロンスキー
撮影:ラッセル・メティ
音楽:ドン・コスタ

買ったのにはもうひとつ理由があって、監督がドン・シーゲルだからですね。ドン・シーゲルと言えば「ダーティ・ハリー」なわけで、イーストウッドの演技もいいですが、撮り方に圧倒されました。クールでダイナミック。映画館を出た時、僕はイーストウッドになってました。(笑)次に撮った「突破口!」も文句無し。カット割りは完璧で、ドン・シーゲルのムダのない演出の完成形だと思っています。(監督自身は、最高傑作は「白い肌と異常な夜」だと言ってますが、僕は縁がなくて未見)

「ダーティ・ハリー」の3年前に撮ったこの映画は、好きだけどちょっと古くさいかな。当時のオールスター出演っぽく、ヘンリー・フォンダ、リチャード・ウィドマーク、ハリー・ガーディノ、ジェームズ・ホイットモア(「ショーシャンクの空に」)など、渋めの俳優が出ているけど、女優はハリウッドスター調で紋切り型かな。撮影は普通でどこか大量生産風。でも、ストーリーが好きですね。40〜50年代に流行った「フィルムノワール」系のどこか暗い調子がいいです。脚本を担当しているエイブラハム・ポロンスキーは1948年に、フィルムノワールの「悪の力」を監督しているし、今回のような骨太なストーリーが好きそう。
ただ、音楽はジャズのビッグバンド系の派手な音楽を配して映画を盛り上げようとしていますが、過剰で映画のリアリティさを壊していますね。「ダーティ・ハリー」のラロ・シフリンのドキドキするようなクールさが欲しいなぁ。

Wikipediaにドン・シーゲルの「作風・演出」が書かれてありますが、すごく納得の文章ですので、ご紹介します。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「感傷的な描写を廃した、暴力的な作品が多い。これは彼が演出家として育った、1950年代ハリウッドB級映画(注:これがフィルムノワール)という環境の特色とも言える。

また、B級映画の低予算早撮りという製作環境の中で、シーゲルは職人的な演出を会得していった。彼は脚本段階から入念な打合せを繰り返して作品のイメージを固め、現場での撮影では無駄なショットを一切撮ることが無いという、ヒッチコックと同じような演出スタイルで作品を撮り続けた。この効率的な演出にじかに接して感銘を受けたイーストウッドは、現在に至るまでこの方法を実践している。」

僕がイーストウッドの映画が好きなのも、このせいですね。

 

2023年5月1日(月

<『Oh My Love』>

Apple Musicの「Chill Mix」(リラックスしたひと時を。あなたを心地よくしてくれるプレイリスト)で紹介されたジャクソン・ブラウンの「Oh My Love」を聴きました。
久しぶりに心洗われるジョン・レノンのこの歌。シンプルなピアノ曲なのに、ずしっと重い。

Jackson Browne - Oh, My Love(2011)

この曲が収録されているのが、ジョン・レノンのトリビュート・アルバム『インスタント・カーマ(INSTANT KARMA : THE AMNESTY INTERNATIONAL CAMPAIGN TO SAVE DARFUR)』。

ジョンレノン

ジョン・レノンに合掌。

Oh My Love (Ultimate Mix)

 

 

2023年4月22日(土

今年も、パン教室「BreadRoom」さんでチャイのワークショップをやります。
今まで1杯点てのレッスンしかしてこなかったんですが、今回は2杯点てに挑戦していただきます。

実は、チャイは1杯作るより2杯作ったほうが味が安定するんですよね。でも、ひとりでチャイを飲む時に2杯作るのは不合理ですよね。だから、ずっと1杯点てのレッスンをしてきたわけですが、今回は2杯分作って、1杯はホットの試飲用、もう1杯はアイス(マサラ)チャイにして飲んでみるというのをやろうと考えました。

ただし、レッスンの時間内ではそれほど冷えないので、ボトルに詰めて持って帰っていただいて、お家の冷蔵庫で十分冷やしてから飲んでもらうことにしますので、マイボトル(130mlが入る魔法瓶など)をお持ちください。

お薦めの茶葉は、パウダースパイスを使ってブレンドした僕オリジナルの「マサラチャイ」。これで作ったアイスチャイは、ホールスパイスを使ったマサラチャイよりおいしいのです。(ホールスパイスを使ったマサラチャイは、香りを重視するのでホットで飲むべきですね。)

というわけで、参加ご希望の方は・・・すべて、満席になりました。ご了承ください。

こちらをごらんください。 

(BreadRoomさんのHP表紙から「神原さんのワークショップ」をクリック)

 

 

2023年3月15日(水

昨年は一部コロナ明けということもあり、ちょっと張り切りすぎました。ワークショップもチャイショップも休憩中の2年間(2020〜2021)を取り戻す勢いで、あっちへ行ったりこっちへ行ったり。その反動で、12月4日のワークショップ終了後から脱力が続き、1月2月は寒い事もあり、僕の頭はほとんど「冬眠」状態。

ただ、その間じっとしていたわけではなくて、頭の切り替えを行うべく、自宅の本棚の整理をやっていました。といっても僕が所蔵している本というのは少なくて、そのかわりに雑多な資料ファイルが散乱していたので、それをジャンル別にまとめていた、というわけです。それが2月中にある程度終わったこともあり、やっとやる気を取り戻しつつあります。

さて、今年始めの活動は、昨年もやった「やっぱりエスニック」の Vol.3での「チャイレッスン」と「チャイショップ」を、4月15日(土)、16日(日)に開催することが決定しました。

「チャイレッスン」では、今までやってこなかった「チャイの2杯点ての講習」 をやります。
「2杯点ては、1杯点ての倍のレシピでいいんじゃない?」と思っている方もいらっしゃいますが、それでは薄いチャイしかできません。ではどうするのか?僕のレッスンに参加して、自分の目で見て、僕の真似をしてやってみてください。
チャイが出来上がったら、1杯は試飲、1杯は冷ましてお持ち帰りください。なので、マイボトル(あるいはタンブラー)が必要になりますが、それを家の冷蔵庫でしばらく冷やしてから氷の入ったグラスに注ぐと、お店で出て来るようなアイスチャイが完成します!

詳しくはこちら

 

 


<拙著『チャイの旅』の別ヴァージョンをinstagramで公開中>

『チャイの旅』が絶版になって久しいですが、この本を求める声が僕のところに未だに届きます。中古で安く手に入ればいいんですが、そういう気持ちとは裏腹に、定価よりどんどん高くなっているのが現状です。本をそのままネットに上げる事はできないので、それじゃあ、ということで考えたのが「another side of チャイの旅」。

訳あって本には掲載できなかった文章や写真、ボツになった原稿、新たに出版後にできた資料などを不定期にinstagramにアップしてみようと考え、4月20日から始めて、8月31日で完結しました。

アカウントは @chai_no_tabi

本を持っている人も持っていない人も、一度覗いてみてください。新しい発見があるかも。かなりの分量があるので、読破するのは難しいかも。(笑)

 


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